を孕む林檎





「お兄ちゃん、さゆは平気だよ」

繋がれた手は、あたたかくて頼もしくて、そしてなによりも絶対だった。
だから私は

私、は







腕に抱えた花束が、吹く風に乾いた音を立てる。擦れ合う包装のフィルムが ひらひらと捲れて、それは何処か外つ国へと旅立つ人を送る艶やかなテープリボンの群れを 髣髴とさせた。
磨き上げた漆黒のハイヒールを鳴らして、ゆっくりと舗装された並木道を歩く。 新年があけ、浮かれたその空気も収まり始めた一月の終わり。 暖冬だという今年、確かにこの時期にしてはそう厳しい寒さでもない。薄く巻いたカシミヤのマフラー で、十分に暖を取ることが出来た。

ふわりふわりと風に揺れるそのマフラーに半ば顔を埋める様にして、更に歩を進める。 段々と歩幅が小さくなっているのは、決してこの先に行く処が嫌だったからではなく、 ただ単に少しばかり疲れたからだ。意地を張ってタクシーもバスも使わずに最寄り駅から 少しばかり距離のあるこの道のりを歩んできたのは、矢張り情緒だとか感傷だとかそういった 類の感情に左右されたことなのだろうけれども。

抱えた包みに揺れるのは季節はずれの大輪の白百合。 恥ずかしげもなく振りまかれたその清純に、私はひっそりと満足する。

わざわざこの花を選んできたのだ。
聖女が抱えるその、厭味を籠めたこの華を。


葉の落ちた銀杏並木を抜けきれば、開かれたその場所にはなだらかな丘が広がっていた。 石造りの階段は、低い勾配で丘の頂へと続いている。一段一段確かめるように上っていけば、 次第に丘の向こうに広がる無限の静寂が姿を現す。潮騒が浸すように耳朶を満たし、潮の匂いが つんと鼻を掠めた。

冬の海を背負う、その美しい丘。その頂に据えられた、彼の


「――…お兄ちゃん」



粧裕、と返す澄んだ声が聞こえたような気さえするのに。
冷たい石の墓標は、非情なまでの冷静さでただ日の光を弾いた。

一月の終わり、あと数日で暦上の冬が終わるこの日


この日、兄は死んだのだ。



墓標の前に花束を置いて、そのまましゃがみ込む様にその場に蹲る。 ただ簡潔に名のみが刻まれたその墓標の表面は、酷く滑らかで美しくて そのくせどうしようもなく唯の石でしかなかった。

兄は、所謂完璧なひとというものだった。勿論そんな兄だってきっと何処か 抱えるものはあったのだろうが、それでも自分にとっては完璧な兄であった。 優しく、賢くて。何でも出来る上に見目まで良いのだから、自慢――若しくは もう少しばかり淡い何かの混じった、感情を抱いたのだって致し方のないことだと思う。 あの美しい兄は自分を確かにただ一人の妹として大事にしてくれたし、それだけで自分はよかったのだから。


――今でもその時のことははっきりと覚えている。電話を取り落とした母を、だが 私は支えるだけの術を持たなかった。受話器から聞こえた、知っている筈の人間の声。 それでも聞こえてきた内容が信じられなくて、ただ呆然と嘘だと呟いてその受話器を拾い上げれば、 少しばかりの狼狽を滲ませて、相手は自分の名を呼んだ。 それでも其れは求めていた澄んだあの声ではなかったので、電話をかわって欲しいのだと確か言い募った 覚えがある。そうすれば押し殺したその激情を潜ませて、相手はもう一度呪いの様な言葉を告いだ。

『月くんは…死んだんだ、粧裕ちゃん』



あの人は美しい私の兄だった
大切な私の兄だった

けれど
兄はこの日死んでしまったのだ



「………粧、裕ちゃん……?」

狼狽えるように揺れる声に、私はゆっくりと振り向く。思い掛けない邂逅に、戸惑うその顔を そっと見上げる。それでも私の鼓動には乱れた様子一つない。当たり前だ、思い掛けないと思っているのは 相手であって自分ではない。
寧ろこの人に会えるのではないかと、思って自分は今日此処まで来たのだ。


「…お久しぶりですね、松田さん」
「……う、ん…」


曖昧に返事をしながら、松田さんは手に持ってた仏花を兄の墓標に差し出す。 その前に置かれた大輪の白百合に少し驚いたようではあったけれど、別段何も言わずに 花を生けてから、持っていたライターで線香を点して静かに手を合わせた。

じっと俯くその横顔を吹き抜ける海風がそっと叩く。 そのまま暫く、その顔を見ていればおずおずと何処か遠慮した仕草で目を開いて 松田さんはこちらを見返した。

其処に映る色
その色に

「粧裕ちゃん…本当に久しぶり」
「ええ、兄の葬式以来じゃないかしら」

凍りついた様に動きを止めた松田さんに構わず言葉を継ぐ。どうせ余りに 自然に自分が言い放った内容が、彼の予想にあった自分の像とかけ離れたものであった からに違いないのだから、そんなことはどうだっていいのだ。




今日私が此処へ来た理由
傷つけるまでの強さで清廉を供えた花を捧げて


冬の海を叩く冷たい風。
磨かれたその白皙の墓標を、撫でるその風が髪を嬲り

唇をそっと開く
そうして押し出した、言葉

「それで松田さん……私に言いたいことが、あるんでしょう?」

「え」
「言って欲しいわ、いま、此処で」

揺れる色
その贖罪を願う色、に



灼けるような怒り、が足元から伝い上がってくるのが分かった。




父が死んだとき、感じた喪失感。そのときはもうこれ以上の衝撃なんか 受けることはないと思っていたのに。棺に納まる兄の顔を見たときに 私の中の何かは音を立てて決壊した。

兄の葬式に集まった、ほんの少しの人々。 母の望みで、親類とそして兄の同僚ただそれだけが集った小さな斎場の真中で。
衝撃とは少し違う、哀しみというには生々しさの勝る 情念がどっと溢れ、忽ちに立ち尽くした私の足を折った。慌てたように差し出された腕の主は、 その場に居た全ての人のように矢張り悲しみに満ち満ちた表情を浮かべてはいたが、他の何かと違う 屈折したものを介在させてもいた。その複雑さがそのときの自分の情念に少し似ていて、 自然にその腕に頼って斎場のエントランスまで連れ出してもらったのだけれでも。 その後、青い顔をした私に水の入ったコップを差し出しながら、その男が言った言葉に私は愕然と することになる。

『…有難うございます松田さ――』
『!…止めてくれ!礼、なんて』
『え…?』

堪らない、といった様に吐き出された言葉

『だって月くんを殺したのは…!僕だ…僕なんだよ粧裕ちゃん!』
『松田!』

大声を上げたその松田さんの行動に気付いて、出てきた男が慌てて制止したものの 突き抜けた言葉を聞き逃せるはずもない。思わず詰問する勢いで食いつけば、うって変わって 消沈した様に項垂れる松田さんの代わりに相沢と名乗ったその男は、言い難そうに呟いた。

『……月くんを撃ったのは、確かに松田だ。…でも月くんは…その、』

死因は心臓発作なのだと、聞いていた。知っていた。 それでも信じられない。あの兄を撃ったなどと、この目の前で唯項垂れる人のよさそうな彼が。

『許して粧裕ちゃん…僕は、僕は』
『……』

そのときは崩れ落ちた彼を見詰めている事が苦痛で、その場を逃げるように去ってしまったのだけれれども。



そんな分かれ方をしてから、久々に出会った。松田さんが如何に気まずいかなんて 分かっていたが、其れを気遣わなければならない義務は私には無い。 それに、あの時は感情が麻痺していて、分からなかったのだけれども。 松田さんは、自分に心底申し訳なく思って居る訳ではなかったのだ。

焦がれるような怒りが、腹の底から沸き上がるような深さでじわりと滲み出る。 力を籠めて松田さんの瞳を見上げれば、たじろぐその足が二三歩踏鞴を踏んだ。

「本当に謝りたいなら此処で…兄の目の前で、謝って欲しいの」
「粧裕ちゃ、」
「出来ない、でしょう?」

申し訳なくなんか思うはず無い。だって彼が欲していたのは私からの糾弾であって、許容ではないのだから。 要は、この人は自分に責め立てて欲しくてあの場であんなことを言ったのだ。 私が責め立てれば、一種の形式として松田さんは罪を償う (背負う、という形式なのに結果としては こちらのほうが正しいのだろう) ことが出来る。 ただ、そんな意図も無く、ではあるが一言も残さず彼を置き去りにした私は結果として 彼を救うことは無かったのだが。それはあくまでも結果論であって、彼がやろうとしたことは飽く迄も 卑怯な逃避であり、そうして私に対する蛮行であった。それを後ろめたく思うだけの良心の持ち合わせは、 あるに違いないからこの場で、彼が謝罪の言葉を口に出来るはずがない。

絶対的な死の前で虚ろに響く言い訳
私にこの場で言い募らせたくなど無いのだと云う

的外れた気遣いゆえに

「……私知ってるわ…ううん、ずっと知ってた」
「……え…?」

渦巻くのは怒り、憎悪、そうして失望

兄は完璧な人だったのに
兄の周りに居た人にそれは隔絶にしか映らなかった

兄の体を貫いた銃弾
死因
心臓発作?

口を閉ざす、巫戯気た行為



知らないわけ、ないのに



「お兄ちゃんが、キラだったんでしょう」



息を呑むところまで、馬鹿馬鹿しく型通りだと、思った。



兄は死んだ
この目の前に立つ人に撃たれて、「キラに殺され」て

――何故?
そんなの決まっている

それはあのひとが、キラだった、から

なんで分からないと思うのだろう。知らないで居られると思うのだろうか? わざとらしく、恐らく兄の死に立ち会ったと言う”捜査本部”の数人だけで隠匿したその真実。

隠匿したそれ自体が、
報道される社会現象が、

赦しを請うた筈の彼の目に宿っていた自己正当化の光が

全て同じことを語っていたというのに



知らないでいる平穏を、彼らが私に望んだのだとすればそれはとんだ身勝手な願いだと言うものだ。

私が、兄がキラだと知っては悲しむだろう?

とんだお笑い種だ。 兄を喪ったいま、その兄の残滓すらを隠し去るその行為こそが何よりも自分には耐え難い責め苦だ。

それを、それをただ自分達の気が済む等という下らない理由で、見せ掛けの憐憫に包み込み白々と 罪を犯した。

私は許せない。
許せる筈ない。


――彼は、許される機会を永遠に逸した。


この場で、兄の前で。
彼が全てを話したならば、私はきっと彼を許すことが出来たのに

揺れた色は変わる事のない贖罪と憐憫だけ
それに激発し自分の口をついた、あの兄のふたつな、犯罪者の名に

彼は全てを糾弾されるのだ。