吹き降ろす風はその勢いを弱めることもなく、其のままに広がる灰褐色の水面を滑っていく。 目の前でただ立ち尽くした彼は、酷く滑稽でそれでいて、全身全霊を懸けた茶番のその 真摯さだけは矢鱈と際立った。

「…粧裕ちゃん…」

僅かばかりの逡巡に、これ以上の逃げを到底許すつもりは無いのだと目で訴えてやる。 諦めた様に肩を落とした彼は、悲しむその形に眉を顰めてぽつりと呟いた。

「……わかんない、筈無かった……よね」
「そこで私に聞くんですか?」

「…うん、ごめんね…」

黙り込んだ彼に、だけれども私は何も言わなかった。決定的な瞬間を待っている。 …言わなければ、ならない。今此処で彼が。 彷徨わせた視線をゆっくりと上げて、松田さんは此方を見る。一歩近づいた彼は、 視線を此方に合わせて一度小さく唇を噛んだ。見下ろす角度は、少しばかりの戸惑いを帯びていて 彼は瞳に少し変わった色を見せた。其の色が何かと考える前に、彼はとうとうその口を開く。


「そう、月くんがキラだったんだ」


訪れた静寂に、先に目を逸らしたのは私の方だった。
海風が揺らすフィルムの音が微かに、だけれど断続的にその美しい墓標の上で響く。 俯いて見下ろす風景は、歩んできた並木。葉の落とした木々は何一つ覆い隠すもの無く唯 その飢えた姿を晒す。なだらかな勾配で此処まで続く道には、ただ美しい石段と圧倒的な冬の色 が敷き詰められていて美しいと呼ぶには凄絶な景色に、耐え切れずに小さく息を吐いた。

「何で教えてくれなかったんですか?」


分かりきった質問を態と紡ぐ。駄々を捏ねる仕草にも真似て、視線を 合わせないまま黙っていれば彼は躊躇う其のままに此方にまた一歩近づいた。 彼だって、君のためだなんていう台詞がどれだけ偽善的なものか分かっているだろう。 額面どおりでも、今はそれ以外の言い訳が聞きたかった。

「…Lの、提案なんだ」
「…える、」

それは確かに聴き覚えがある名。当たり前だ、キラ事件においてその名前が語られないことは無い。 でも、私は確か聞いたことがあった、身をもって知ったことがあった。 Lはもう死んでいる。そしてその代役を務めていたのが、恐らくは

「お兄ちゃんがLだったのではないの?」

大げさに身じろぎした彼は、酷く驚いた表情で此方を見ている。 下手をすればキラだ、といった時よりも驚いているのかもしれない。 訳も分からぬ苛立ちに駆られながら、その表情を目線だけで詰れば、松田さんは 強張った表情のままどこか虚ろに返事を返した。

「何でも知ってるんだね粧裕ちゃんは。…そうだね”L”は月くんだったんだよ …2代目、って今のLは呼んでたけど」

それならば話は酷く簡単だ。ああ、と聞くまでも無く私は全ての真実を理解する。

「そう、じゃあその”L”がお兄ちゃんを殺したのね?」
「………、」

肯定も否定もしないで、彼はじっと黙り込む。唯それがどうにも今の状況にではなく 彼自身の恣意に耽る様子なのが気に障り松田さん、と名前を呼べば彼は 何処か唐突に言葉を零した。





「粧裕ちゃん、それを言うなら…きっとキラが月くんを殺したんだ」







――お兄ちゃん、さゆは平気だよ

繋がれた手は、あたたかくて頼もしくて、そしてなによりも絶対だった。
だから私は







「え……?」

あれ程吹いていた風が、いやに静かに止み、嬲られて背に落ちた髪が首筋にさらりと触れた。 ……何を言っているのだ、この人は。だって兄はLだった、けれどLは兄ではなかった。そして兄はキラで、 キラは間違うことなく兄だったのに。
混乱を隠さずに見上げれば、虚ろな其のままに彼は呟くように言葉を押し出した。

「……だって、そうだろう?月くんは…あんなにいい子だったんだ」

――「キラ」が「月くん」を殺してしまったのでなかったらあんな――







だから私は
その繋がれた手に全てを預けて

その繋がれた先を顧みようとはしなかったのだ――







「――…………っ!!!!」


衝動のままに目の前の花束を引っ掴み、そのままの勢いで目の前の相手に叩きつける。 乾いた其の音は案外に大きく、大輪の白い花弁がはらりと散る軌跡を揺らした。


「馬鹿な事言わないで!!!!」


渦巻いて溢れ出した激情は最早留まるところを知らない。 内から灼かれるその感覚に、溜まらなくなってそのまま頑是無い子供がするように 掴んだそれを振り回して、強く目の前の男に叩き付けた。 白い花弁が矢張りひらひらと舞う。風のない丘の頂に、それは静かに落ちた。

「さ、粧裕ちゃ…!」

咄嗟に手を上げた彼は、振り上げた腕を掴んで止める。 軋むような音がして止められた動作は勢いのそのままに、私の体をがくりと前に傾がせた。 まるで男の胸に縋りつくような体勢に、ぞわりと背に怖気が走る。引き抜こうとした掌が 存外に強い力を以てその動きを戒めた。

「離して!!」
「粧裕ちゃん…!!お、落ち着いて…」
「厭よ触らないで!」


大輪の白百合
清純を掲げた欺瞞

贖罪を願う瞳

許せない
許さない
許されない


贖罪を願うのは、誰





「あなたがおにいちゃんを殺したんだわ!」





ぴたりと動きを止めた彼の手から翻るように逃げ出して、二三歩後ずさる。 何処か愕然とした表情で見返した其の男を、力の限りに睨み付ける。 ――……そうしなければいけないと、何故か強く思った。


「お、兄ちゃんを撃ったんでしょう…?!キラだから!お兄ちゃんがキラだったから、撃ったんでしょう!!?」

「……!!粧裕ちゃん!」

「何よ卑怯者!キラはキラは…人殺しよ?!でもキラを殺した貴方だって…人殺しには変わりないじゃない!」

「僕は月くんを殺してなんかいないっっ!!!!」



はっと、身を強張らせた彼の姿にどうしようもない感情が全てを押し流す。

「そう…。貴方は、「兄」じゃなくて「キラ」を撃ったんだと言いたいのでしょう?」

灼く怒り、絶望、憤り。口を閉ざしていたわけ。知っている、彼が何の罪に慄いていたのか。 彼は自分のしたことを悔いるのが怖かった。そうして向き直るのが厭だったのだ! だからその事実自体を隠蔽した。
何で教えてくれなかったんですか?…勿論其の答えは、


「もう一度言いなさいよ!さあ!お兄ちゃんがキラだったんでしょう!!?」


腕を振って、示してやる。
向き直った先、滑らかな石に刻まれた、確かなる証

――”夜神月”――



青褪めた顔で、男はぐらりとふらついた。 此方を向き直る瞳には、今や何の色も籠もらない。当然だ、糾弾されるのはその罪ゆえ。 弾劾されるのはこの絶対的に逃れがたい、一つの名前になのだから。 過程がどうであれ、思惑がどうであれ――

兄は死んだ
それだけが今此処に変わりなく

「キラ、に押し付ける気…!?兄が死んだのは、死んだのは―」

渦巻くのは怒り、憎悪、そうして失望

兄は完璧な人だったのに
兄の周りに居た人にそれは隔絶にしか映らなかった

兄の体を貫いた銃弾
死因
心臓発作








――違うわ――



「…………死んでしまった」

兄はそんなことで死んだのではない

兄は

男が身じろぎして、その見開いた瞳を更に見張る。 とんだ間抜け面だ、と何処か遠く思いながら、力の抜けた足がゆっくりと折れるのを感じた。



死んでしまった
そう、今更彼にどの様な言い訳が通用しないように
厳然と存在する彼の死

――そう、今更どんな言葉で言い繕っても。どんなに彼を責め立てても



おにいちゃんはしんでしまった



「……っ……」
「……!粧裕ちゃん」

兄が死んだのは、世界との隔絶
周囲のその裏切りによって

だからそれは

「貴方のせいだわ……」

大輪の白百合
清純を掲げたその欺瞞
贖罪を願う瞳
許せない、許さない
――鏡写しの糾弾―

許されない
その絶対者に贖罪を願うのは、



そして顧みなかった手の先



「…そして、私のせいなんだわ」



熱い感触が頬を次から次へと流れ落ちる。
折れた膝が石畳を叩く前に、伸びてきた腕がぐいと 力の抜けた体を引いた。 縋りつく姿勢に、だけれど今度は伝わる熱以上のものは感じなかった。


「……お兄ちゃんは、かみさまみたいなひとだったのに」


裏切ったのは間違いなく私達。 手を差し伸べられたことが無かったであろう兄を、切り捨てたのはこの世界。 そうして安穏と暮す中、其の罪から逃げ続ける。


「…粧裕ちゃんっ……、ごめん…ごめんね」


必死に紡がれる声は、半ば掠れて酷い声だ。それでも彼は涙を零そうとはせずに、 腕を引き寄せてじっと此方を見た。


「…僕は、月くんに謝れない。……だから君に、謝るんだ。…本当にごめん」
「…酷い、…この卑怯者」



彼が私を見下ろしたときに、兄の姿を浮かべていたことを本当は分かっていた。 少し高さの違う其の空間を彷徨う彼の視線は確かな純粋な思慕、そうして美しいまでの情愛が 籠められていたことも。

身勝手な理由、臆病で己が過ちを認められない愚かしさ
兄を、排斥した其の大罪のままに口を閉ざした

でも其れが、彼の本心からの兄への優しさだと知ってもいた
兄は私を唯一人の妹だと大切にしてくれたし、そして


私も”それ以上”など求めなかったのだ――



「僕は…月くんが好きだったよ。」

最早半ば抱きつくようにしてその腕の中に縋りつく。背を抱いた其の手が、ゆっくりと力を籠めて私の体を引き寄せた。

「キラであっても、じゃない。キラである彼が好きだった」
「嘘つき……嘘よ嘘…そんなの」
「好きだったんだ」



そんなの、私だってずっと



止められない雫は最早視界を埋め尽くして、全ての景色を歪ませた。 ただ抱き込まれる感覚に瞳を引き下ろしながら、白い墓標の上に一枚白百合の花弁がふわりと落ちるのを その刹那確かに目に捉えた。









「……落ち着いた?」
「酷い月並みな台詞ですね。莫迦みたい」
「……それは酷い」

どこかぎこちない動きで彼の腕から離れ真っ直ぐと立つ。どうせ酷い顔をしているのだろうとも思ったが 構いはしない。

「……そんな風な、言い方はやっぱり月くんに似てるよね」

平坦に広がる水面を背にして、松田さんは漸く寂しげに笑い 刻まれた墓標にそっと手を伸べて撫でた。

「だって私はお兄ちゃんの妹だもの」
「……そうだね」


吹き抜けていく風に、そっと散らばった花弁を乗せる。 頂から海原に向かって広がりゆくそれは容易く全てを舞い上がらせた。 最後に残った一つを手に取るために、そっと冷たい石の其処に手を伸ばす。

兄の名の刻まれた真実。それでも私も彼も知っている。 兄はもうこんなところにはいない、この墓標は悲しいまでに唯の石でしかなかった。

「……松田さん」

なんだい、といいかけたその口を塞ぐ。掠めた唇が小さく音を立てて離れた。 其の隙に手を離れた花弁は今度こそ風に乗って散っていく。 白く滑らかな石の上はそしてまた美しいまでの無に包まれる。ただそばに添えられた形式ばかりの 仏花が、その御座なりな儀式を象った。

「粧裕ちゃん…!?」
「さようなら」

もうきっと会うことは無いだろう。何時の間にか足元に落ちていたマフラーを拾い上げて、さっと首に巻く。 そのまま踵を返して石段を真っ直ぐに下った。ハイヒールが石段を鳴らす音が、響いてくる潮騒を かき消すように貫く。抱えるものも無く、酷く楽な帰路に自然と足が速まった。





私と彼は確かに同罪だった
でも、だからこれ以上傷を舐めあうような真似などしない



だって兄はかみさまみたいなひとだったから
この傷を癒すのもきっと兄にしか出来はしない



散らした花を顧みずに、ゆっくりと石段を降りる。
そうしてタクシーを拾う為に私は颯爽と道路の方へ進んでいった。






自分で書いといてあれですがこんな松田さんは最低だ…
すまないねまっつん。でも別に松月でもない。
…いやそうでもいいけど(お前が最低だ