君がヒロインじゃないように、僕もヒーローじゃないんだ






静寂に満たされた部屋は、つい昨日まで日本捜査本部として機能してきた其処。幾つかのディスプレイはだが全ての電源が落とされていて、ただその暗渠にうすらと室内の薄明かりを弾くだけだった。室内にいる誰もが押し黙り、口を開こうとしない。一夜限りの御伽噺のタイムリミットは疾うに過ぎた冬の夜空には容赦のない冷厳さが漂い、大きく開けた窓は氷のようにてらりと光っていた。

今日という一日をどう受け止めればいいのか、此処にいる誰もが迷っている。
度を越えた緊張の連続に草臥れ果てた体は、今すぐにでも倒れこんでしまいそうなのに、ぎらぎらと冴えた頭は休息を許さない。だけれど、何かを考えこむには、まだたった数時間前に起こった全ては余りに生々しい。

“そうだ、僕が―…”

…目に焼きついた海辺の夕焼けは酷く赤く、冬空の一瞬の煌きはしかしすぐに夜闇に紛れて。閉塞された薄汚い倉庫の中で行われた一連の出来事、その意味を、考えなければいけないのに。



駆けずり回った挙句、僕たちは結局月くんを見つけることが出来なかった。見つけたのはなんと在り得ないことに、ニアと名乗ったあの少年だった。血の跡を辿ったんですと気の無さそうな声で言ってはいたが、そんなことは此方だってしていたのだから、きっと何がしかの当たりをつけて探したのだろう。何しろ見渡す限り幾つも似たような倉庫が立ち並んでいて、とてもじゃないがその全部の隅々まで見て回ることは出来なかった。冬の日のこと大分日も傾いていたし、月くんを見つけたときにはすっかり夜になっていた。
一度諸々の所用を済ませてから再度話したいことがある、と言ったニアは意外にも素直に月くんを僕たちに預け去っていった。すべきことの多さに途方に暮れてしまいそうだったが、兎にも角にも捜査本部に戻ることになったのは至極当然の流れだったかもしれない。皆で車に乗り込んで、ゆっくりと汚れた海沿いの道を走る。無骨な有刺鉄線から垣間見た晴れた夜空は、日の無い刻限なのにそれでも確かに悲しげな青をしていた。




「松田」
「は、い」

不意に隣席からかけられた声に、大げさに振り仰ぐ。実際大して驚いたわけでもなかったのだけど、何か糸が切れたような動きで勝手に体が隣に向き直った。

「…いや…伊出も…模木も…そろそろ今日は休んだ方がいい」
「ですけど」
「隣室には…、…どうせSPKがもうすぐ来るだろ」

ない交ぜにされた感情は複雑すぎて、その声音にどんな色がのっているのかさえ不明だった。相沢さんの顔には色濃い疲労が浮かんでいて、呟いた声もいつもに比べてずっとずっと弱々しい。なのに兎に角休め、などと繰り返す彼は何か責を負うかのように、強い目をしている。其処に光る感情をやはりはかりかねて、密かに目を逸らす。歪んだその色が怒りなのか哀しみなのか自嘲なのか、それとも、

「いえ相沢さん…自分は大丈夫ですので、」

模木さんは何時もみたいに抑揚の薄い調子で、そっと相沢さんに頷きかけた。やはりくっきりと顔面に刻まれた疲労感は、きっと肉体的なものではないのだろうが。ただ少しだけ寂しげな所が、他の二人と少し違うような気がした。

「……そうか」
「…SPKの連中はなにやってるんだ」

伊出さんは、むしろそこまで疲れている様には見えなかった。ただ、何時になく苛立たしげに始終指先を叩いている。怒りをぶつける先を探しあぐねているのだろうなと、ぼんやりと思ったが顰められた眉の間は意外と冷静で、どうにもこんな洞察もあてにはならなそうだ。

ただはっきりとしていたのは、誰しもが一旦何もかもを考えるのを止めたということだけだった。何を考えればいいのか、とさえ考えてはいけない変に穏やかな緊迫感があった。

……当然なのかもしれない。
今日キラが死んだのだ。
そして、キラ、は





結局誰も眠ろうとせずに、そのままじっと座り込んだままでいた。カチカチと鳴り響く時計の針に合わせて数を数えていたが、二千を越えたあたりで投げ出す。

ふと手元に視線を落とすと、爪の間に何かが入り込んでいるのが見えた。最近忙しさを言い訳に無精になったような気がする。少し前までは、婦警のいない現場にだってきちんと身なりを整えてから行っていたものだ。爪先で弾く様に白爪に入り込んだ黒っぼいものを削り出していく。パチパチと思いの外高い音があがって、少し面白かった。



「!、」

不意に高い電子音がして、部屋の中のそれぞれがびくりと肩を跳ね上げる。もう一度繰り返されるその電子音がインターホンのそれであることに気付き、そっと溜め息を吐いた。

「…鍵を開けるから入ってきてくれて構わない」

パソコンでさっさとドア鍵を操作した井出さんは、そのままパソコンチェアに腰掛けたままだった。僕にしても、ソファから立ち上がる気はない。いつも誰かがこの部屋に帰ってきた時は、何となく必ずドア口まで迎えに出ていた。些細なことだけれども、何年も少し異質な捜査本部で過ごす間柄同士で自然と習慣付いていた事だ。

「…ニア、」

部屋に入ってきた少年は、物珍しげに室内の様子を一瞥してから相沢さんのほうへ歩いていった。その後に続くようにしてSPKの幾人かが続く。先程会ったばかりの面々だ。
何とはなしに一人一人確かめるように顔を見ていく。Lの正統な後継者の少年、それに付き従っている大人たち。ぐらりと酷く捻れた感情が沸き上がって、口の端が引き攣る。覚えのある構図だ。

…―あの時、彼はまだ、十八歳だった。


「…ミスター相沢、先ずは此からのことをお話しましょうか」
「あぁ…そうしてくれ」

相沢さんの向かい側のソファに腰掛けた少年の姿に、又も複雑な感情がよぎる。変な座り方をした“探偵”の姿は、記憶の中でも未だに精細だ。倉庫の中でも薄汚れた床の上にぺたりと座り込んでいたものだが、斯うして室内で見ると余計にそれが際立った。それは多分重なって浮かぶ姿が殆ど室内のものばかりだからだろう。ちらりと他の面々を窺うが、先程と同じ憮然とした表情のままで、その採択された感情の種類はよく分からない。

「まずキラを…捕まえた、全てに関しては公表しません。皆さん方にも当然口外は慎んで頂きます」
「…異存は無い」

相沢さんの声に、つられて頷く。そうなるだろう、と思っていたから抵抗は無い。ただ少年が意外にも気遣いめいた言い回しをしたことだけが驚きだった。

「各国の関係者には、秘密裏にキラがもう活動することはないという事実だけ通します。 暫くは社会的に混乱が起こるでしょうが…その収拾くらいは各国に委ねてもいいでしょう」

通信でも(記憶の中のその姿でも、)聞きなれた物言いはそれでも、まだ高い少年の声に乗せられていてどことなく据わりの悪い気分がする。無言の同意の下に幾つかのことが淡々と決められていくのを僕はただぼんやりと見ていた。

――恐らく此処で今決められているのは単なる”事後処理”などではないのに。


「…そうしてくれ。」
「魅神照に関しては…」

挙がった名に刹那緊張が走る。脳裏にちらつく赤の鮮やかさを振り払いたくて一度きつく目を瞑った。 作り出した暗闇に何故だか慌てて目を開けば、やっぱり他の面々にしても形容しがたい苦みをちらつかせている。

「事故死として処理させます。彼の両親はもう在りませんし、独身ですからそう難しくはないと」
「ニア、」

横にいたSPKの男が少しだけ慌てたように口を挟む。今まで押し黙っていた彼のそんな行動こそに寧ろ驚いて見詰めれば、気まずげに視線を落とされた。

「…兎に角、いいですね」
「ああ…そう…そうだな」

不自然に落ちた沈黙は、苦行を先送りにする其れそのもので酷く息苦しかった。 実際ニアは煮え切らない、といった微妙に苛立った顔をしている、ように見える。

「では……デスノートは、どうするんですか」

模木さんの声に少しだけ救われた気分になって、そっと模木さんの方を見返す。 だけれどもニアを見詰めるその表情は何時も異常に硬くて、思った以上にぎくりとした。

「私が処分します」
「その…いいのか?」
「何がですか」
「いや…」

思わずといった感じで言葉を挟んだ相沢さんは途中で言葉を呑んでしまったが、言いたいことは分かる気がする。
あのルールが真実、嘘なのだとしてもあの”ノート”を如何にかしてしまうということには多大な抵抗感があった。それが死神の(リュークと名乗ったあの死神は、随分気さくな存在に見えたものだが) 何らかの行為を恐れてのものなのか、敷居を踏めない様な下らない畏怖なのか。 …それとも、そのノートそのものの重みを、忘れることが出来ないから―…なのかは、わからないのだけれども。

「……いい、ですね?」
「ああ」

最早言うべき言葉を持たずに、押し黙る。
残っていることは後たった一つだけだ。

これは単なる”事後処理”などではないのだ。…だって、昨日まで居た人が今此処にはいない。
昨日まで、この世界を席巻していた、その条理はもう通用しないのだ。だったら、だったらこれは単なる事後処理なんかじゃない。そうであり得ない。

――ここで淡々と話し合われている、否、宣言されていることは、新しい世界のルール、そのもので。



「それで…、夜神、月のことは」




がたん、と思いのほか大きな音がして吃驚する。何の音だ、と混乱した頭で考えるが如何にも斯うにも向けられた全ての視線で理解させられる。立ち上がったその行為は最早無意識だったが、一度そうして動いてしまうと、もう大人しく座っていることが苦痛でしょうがない気がした。

「松田!」
「………」

窘める声に、収まりがつかなくて小さく首を振る。何か、何か言いたい事があるような気がするのに何一つとして言葉として出てこない。ニアの方を半ば睨み付ける様にして見やれば、何処までも冷ややかな視線が容赦なく返ってきた。


「此方で処理させて頂、」
「な、巫山戯るな!」

言葉面の平淡さにカッとなって漸く声を荒げれば、立ち上がった伊出さんがぐっと肩を掴んで制止してくる。益々氷を砥ぐような色で此方を睨めつけた少年は、酷く呆れたように言葉を繋げた。

「…きたい所ですが、そうもいかないようですので、兎に角葬儀まではご自由に全て其方にお任せします」
「どういう、事だ?」

相沢さんがちらりと此方を見上げながら慎重に言葉を継いだ。僕はといえば、兎に角ささくれた気分なのに急激に何をするにも億劫な倦怠感に襲われていて、棒を飲んだように立ち尽くしながらもそれだけだった。

「…そんなことはありえないですが、万が一、キラの正体が露見した時に何か残っていては困ります」
「な…」
「日本では荼毘に付す、というらしいですが…骨も完璧に処理して下さい。できれば灰に至るまで、全て」



静まり返った部屋の中で、自分の息の音だけが矢鱈と大きく聞こえる。言葉の響きをなぞるだけで一向にその意味は中に染み込んでこない。

「あ…、ふざ、け…」

焼いて撒いて、しまえば。風に乗せてその全てを消し去ってしまいさえすれば、全て全て、そしてさすればもう”二度と”、斯うして偶像になることも無く、て?
(――それでも、それでも彼は自らを神だとのたまうのだろうか)



今日キラは死んだ。
キラは、殺された。

キラは







「松田ぁ!!」


突き動かされるようにして身を翻して奥の部屋へと駆ける。誰かの腕を振り払った気がしたけれど今はどうでも良かった。





悲しげな夜空の青、目の前をちらつく劫火の如き夕陽の残照。凍りついた狭い部屋の中で構築されていく新しい条理。打ち砕かれて地に堕ちた、偶像の残骸は無惨に崩れ。壊れ朽ち果てていく煌びやかな独裁者、何処までも独り善がりの救世主は?(灰になって、)空へと還り(、灰に至るまで全てを)

半ばドアに倒れこんで奥の部屋へ入り込む。反射的に後ろ手で打ち開いたばかりの戸を閉めて掛金を下ろす。追って来る気配に一瞬身が震えたが、ガチャリと硬い音を立てた鍵に少し頭が冷えた。どうせ打ち入ってきたりはしないだろう。自分だってそんなことをされるような真似をするつもりもない。



ふらふらと部屋の奥へ進む。普段仮眠室として使っているその部屋、他愛の無い幾つもの思い入れのある部屋なのに今日ばかりはその全てが何の意味も為さなかった。横たえられている、彼の肢体。等閑に掛けられた布はそれこそただのシーツで、まるで唯彼が眠っているかのように見える。―もしも、その体から漂う鉄の匂いを、感じる事さえなければ。



「月く…ん」


ゆっくりと。本当に慎重に歩み寄って、そっとその傍らに座り込む。お誂え向きのサイドチェアは、丁度彼を見舞うかのような位置にある。本当に病人を見舞うかのような姿勢で覗き込めば、少しだけ悲しそうな顔で目を瞑った彼はそれでも見慣れた端正な顔をしていた。少しだけ躊躇ったあとに、そろそろと手を伸ばす。乱れた前髪を払ってやっても、気配に敏感なたちの彼はピクリとも身動きしなかった。指の甲に触れた感触が酷く冷たいのに、気付かない振りをする。それでも擦った痕の残る頬は、何時も通り滑らかなのに、軌跡をひいて黒く汚れていた。

……何と言った?
彼を、葬って、消しさってそして?



どんどんと扉を叩く音がするのに、少しだけ眉を顰める。無遠慮に響き渡る音は苛立たしく、そして何より応えを返さぬ相手に対して何よりも傲慢だった。

「松田、ここを開けろ」
「……」
「………どうしようもない、どうしようも…ないだろ、う!!!」

上げた声が揺らいで、喚く言葉尻は涙交じりに歪んでいた。あいざわさん、と小さく呟く。驚いた、彼は泣いて、いるのだろうか?ドアの向こうでも慌てたような声が飛んで、少し空気が揺れる。

「――だって、仕方なくなんか無いんですよ」
「松、田」
「だって、」

視線を戻せば、眠るようなその。
それでも、その口はもう神を標榜することはなく、その指が罪人を裁くことも無い。

(そして話すことも無く、困ったように叱ることも無く、意外と年相応に狼狽えて見せることも無く、宥める様に微笑むことも無く、この世の救い難さに肩を震わせて嘆くことも無く、人間を愛したいのだとその瞳で冀う事も、もう何も、一切が、無いのだ。)

「月くんは、月くんは――、」
「…松、」
「松田、”さん”」

聞こえてきた声にぎょっとして思わず顔が強張る。知っている筈もないのに、その聞き覚えのあるイントネーションで少年は僕の名を呼んだ。

「何をしたいのか知りませんが…今は兎に角出てきて下さい。早急に何かをしなければならない、訳ではありませんし…早くこの話を終らせたほうが貴方にとっても良いでしょう?」

ずらずらと継がれた台詞は少年のものにしては酷く柔らかい様な気がする。疲れているのかもしれない。感傷?まさかそんなことがある筈も。

「……」

見詰め返す顔、眠る顔。



彼がキラだ。キラは彼だった。彼は夜神月だった。彼はキラだった。キラは夜神月だったのだ。キラは死んだ。昨日までこの世の条理を縛っていたものは消えてなくなった。キラは死んだ。夜神月はキラだった。
キラ、キラ、キラ。ここ数年、何時だってこの世界の(自分の)全てに干渉してきたそれ。殺し生かし救い突き放し、感謝を絶望を憎悪を愛情を捧げられて、時間を価値観も人の軌跡をも奪いつくし蹂躙しつくして、創り上げてきた、キラ。
竜崎は、Lは。警察は、次長は、捜査してきた時間、羅列された数字文字列名前名前、名前。



ぐらぐらと沸き立つような何もかもが渦巻いて、身を焦がしていく。

青い空、目に残る赤。ドアの外から聞こえる少年の声、記憶の中の涼やかな、声。(松田さん)横たわっている彼。怒りを立ち上らせるようにして泣いている、どうしようもない、なんて似合わない台詞で。疲れたように怒った様に寂しそうに、皆は何を見たのだろう。自分は何を見た?作られる新しいルール、排除されたのは壊れた仕組み。たったそれだけのこと。追ってきた事件が解決した。日が沈んで一月二十八日という一日が過ぎた。それだけの、ことなのに。
人が死ぬのはこれが初めてなんかじゃあない。沢山、死んだ。もう何人死んだかさえ、覚えてない。死に掛けた事だってある。それでももう過ぎた時の話なんて、唯の物語でしかない。


「…だって、僕は、」


あの倉庫の中でさらされたものは一体なんだったのだろう。
正義か条理か愛か、狂者の論理か知者の訓戒か、真情か全ての偽証か。

彼、なのか。それとも彼以外の全て、なのだろうか。



何もかもが分からなくなって、座り込んだままぐしゃぐしゃと頭を掻き毟った。大体、何がしたくてこんなことをしているのだろう。灼くような激情に突き動かされたのは本当だったけれど、其れが何だったのかさえもう分からない。

ふと手を下ろすと、先程と同じように爪先の黒い汚れが目に入る。軽く手を掲げて、それを眼の前に持ってきて、そして



「あ、ぁ、あ…!」



思わず視界から消そうと振り払った己の手は、ベッドの縁にぶつかって酷い音を立てた。なのに、その痛みなんか微塵も伝わってこない。ただただ爪先から這いのぼってくるような怖気に、がたがたと肩が震えた。



黒く、赤く。固まった。爪の間でどろりと溶けたその。彼、の



「うあ…!」
「松田!?どうした?」

聞こえる声が誰のものか、考える間もない。ガリガリとがむしゃらに爪先を穿り出して、怖気を振り払おうとする。ひりつく様な痛みが漸くじんわりと伝わってきたけれども、その熱にさえ浮かされる様にして只管に爪先を弾いた。



今日あの倉庫で何があった、何を見た、何をした?手に残る硝煙の匂い、彼の頬が黒く(赤く)汚れている訳。抱き上げた、突きつけた掌の爪に、入り込んだ生々しい欠損の気配。その生々しさを悦び滴るように赤いのに、花の咲くかの如くに飛び散るその鮮やかさなのに、凝り黒く惨めに罅割れ地に落ち散らばって。流された代償、その丹精込めて創り上げられた偶像に疵をつけたのは誰、何で、そんなことを?

…愚かな父親(敬愛する人)、どうしようもなく盲目な善人に憐れみを垂れるその台詞
歪んだ顔に浮んだ傲慢は確かに、支配者の、独り善がりな(そして真摯なこどもの)

乾いた音を立てて破裂した銃口、僕は射撃だけは大の得意だった。他のことではあまり役に立てないから、もしもこんなものを使うことになったら、きっと、きっと役に立とうと思っていた。

(だれ、の)


”――…だれか、”
(たす、けて)



「ら、月、くん、……僕、僕は」

縋りつくようにして、横たわる彼の体を掻き抱く。その弾みに床に落ちたシーツが、隠していたはずの血塗れ黒ずんだ彼の体躯を露わにする。汚れ乱れた格好の彼、痛々しい傷。此れは誰が(銃で撃って)。涙の痕に引きつった目の端は何故(ぼろぼろと流れていたのを、見、た)


殺したいと思ったのだ。死ねばいいと思った。
許しがたい悪だ、この世に存在してはいけない罪だと、思ったんだ。

だから撃った、殺そうとした、”殺した”。拒絶した、全てを否定してはねつけた。己が戯言に固執する彼を見苦しいと思ったし、煮えたぎるような怒りはあの何処までも優しかった彼の父親を嬲り殺した殺人鬼を心の底から憎んだ。

殺した、何処までも優しかった彼、を。



あの倉庫で何があったのか考えなくちゃいけない。沈んでいく夕陽と一緒に確かに迎えた終焉を受け入れなければ、いけない。たった一日が過ぎ去っただけのことを、理解しなくてはならない。その独り善がりで残酷で忘却の投擲に甘え縋った惨めな”殺人者、の”論理。

僕は彼を殺した。
彼が、罪人を、殺したように。


「………っ!!!」
「松田!!」

聞こえてくる声が近くて椅子から転げ落ちる。鍵をこじ開けて入ってきたらしい面々は、どの顔も見慣れた、ずっと共にあったものばかり。ひとつもふたつもみっつも…足りてはいないけれども。

「う、」

ガンガンと鳴り響くように頭が痛む。目の縁がどうしようもなく灼けて、ひりつくように喉が震えた。


「だって、だってこんな事、こんな事って…月くんが、月くんは!頭が良くて、優しくて、でも…!皆、どう、なんですか!相沢さんは?模木さんは!月くんがキラだと疑ってたでしょう?あってたじゃないですか、本当そうだったんですよ」
「まつ、だ!」

「伊出さんはどうなんです?…ああ…でもそんなの関係ないですよね。そんな、の」
「…仕方が、ないじゃないか!俺だって、出来るならこんなことにはなって欲しくなかったんだ!それでも、キラは月くんだったんだから、そんなの仕方ないだろう!!」
「仕方なくなんか、ないですよ!」

振り上げた手はまたもベッドサイドだけを叩いて落ちた。ベッドの上に投げ出されている血塗れた掌が、その振動にかすかに揺れた。



「月くんを、止められなかったのは、僕らでしょう!?!」



叫んだ途端に酷い脱力感に襲われて、がっくりと首を折る。そうだ、そうだったんだ、ずっとわかっていたのに。

彼の力になれなかった。彼の救いになれなかった。彼を理解しなかった。
ただ絶望のみを与えて、そして身に刻んだのは、冷たい鉛玉の痕だけ、なんて

幼稚で真摯なキラを、大好きだった月くんを、僕はまとめて叩き潰して消しさったのだ。灰をばら撒くよりも、骨を砕ききるよりも、確かな方法で。(だって僕は、彼に死を、)

「…ごめん、なさい」
「………ああ、ああ――」

「ごめんなさ、い…」

震える手を伸ばして触れた、冷たい掌はもう誰も救わない。砕かれた偶像に罪人を裁く力は無く。
赦すことなど、もう二度と。



「ミスター松田、」
「…」

ゆっくりと振り仰げば、やっぱり白けたような顔でこちらを見ている少年。けれども何か言い得も知れぬ激情に刹那瞳を揺らしたのが、不思議とありありと見て取れた。



「――…キラは神なんかじゃ、なかったんですよ」


「…え」
「だから貴方は、十三人目の聖人には、なれない」


確かに蔑む様な色をしているのに、其処に漂うのは共感めいた自嘲だった。思わずまじまじと見返せば、今度こそ元通り冷たいだけの視線を返してきた。

「…今日はこれで帰ります。…では、宜しく、お願いします」

誰もが返答に詰まって、ただ黙って彼を見返す。其れを気にした様子も無いニアは少し黙って、ベッドの上を見詰めていたが、それもほんの少しだけで直ぐに踵を返した。




「……少しだけ、少しだけいいですか」
「何だ」

足音が遠ざかって、遠くで部屋を出て行く音が響いていた。電源の落とされたPCは聞きなれた駆動音も無くて、ただただ深淵に広がるような沈黙を守るだけ。夜の長いこの季節、覗く窓はまだどうしようもなく漆黒に濡れていた。

「月くんは、キラに殺されて、」
「まつ、」
「伊出さん」
「だから、…だから。許してくれますよね」

初めて堰を切ったように溢れてくるものが、そうして落ちたシーツを濡らしていく。冷たくなった手を握って、その手にこびり付いた黒を指先で削ぎ取っていく。


彼はキラだった
この日、キラの世界は終わりを告げた。

世界はキラの手を離れて、またもその手を血に濡らして、それでも神に縛られぬ自由を悦ぶのだろう。



彼は神になれなかった。けれど神になろうとしたから、犠牲を尊ぶ条理に則った。
速やかに象られていく”新しい”世界。もはや一度失われた力に世界が未練を示すことなんか、無い。灰を撒いて、君は風に舞って、それでもどうしようもなくもう何をも作り出すことは出来ずに。


「ごめんね…ごめん月くん」

君を殺した。僕は神様ではない君を、血溜まりに浸して。
そして一日が過ぎていくことを受け入れることが出来る。




そうして僕はもう二度と、せいぎのみかたには、なれないのだけれど。








粧裕たんと松田の話に実は続く。
月たん追悼…なんだか所々未補完。他の捜査員は他の捜査員でまた書きたい気がするけど松田はとりあえずこんな感じです。