硝子のヴァイオリン


組み敷いた腕は矢張り呆気ないまでに細く頼りない。手折るなどという陳腐な言葉が脳裏に浮かぶのが酷く可笑しかった

「ミス、」

呼び掛けてやれば、女は弱々しく首を振って応えたようだった。薄暗い室内で、厚いそのカーテンの狭間から差し込む月の光がうすらと燭台の金を照らす。ぼんやりとその様を見つめればその鈍い光はうっすらと艶めいて弾いた。二三度瞬きを繰り返せば、濁っていたらしい視界が明瞭になった。伝う汗がひたりと前髪を垂らして張り付いている。外は酷く寒いのに、こんな馬鹿げた事をしている自分の体躯は可笑しなほど熱い。思わず笑いが喉を突いてくぐもった音をたてれば、びくついたように女は身を縮こませた。

「…ミス・ブレナン、どうしたんです。そんなに怖がることはないんですよ、」

いっそ腫れ物にでも触れるような手つきで涙に濡れたその頬を撫で上げてやる。常には禁欲的なまでにきちりと整えられたその髪は、肩に落ちかかる時には確かに豊かな黒い流れを作ったものだが、今ではじっとりと汗に濡れて頬に張り付いてしまっていた。どこか作業めいた動作で一房一房退けてやるように梳けば、肩を流すようにして女は身を捩らせた。

「…ぃ…リアムくんっ……もう、や…め…」
「駄目ですミス、…貴女なら、僕を救って、くださるのでしょう?」

最早正気を保っているのかすらあやふやなその黒い瞳がゆらりと揺れる。迷うように巡らされた視線が、綺麗な弧を描いてこの薄暗い室にさしこむ光の軌跡を追った。


偽善的で世間知らずな彼女は所謂模範的な女性ではあった。高い教養に裏打ちされた知性は、その清廉な行いを支えるに相応しい。慎み深く、それでいて弱きを助け強きを挫くような質だって賞賛に値しよう。
ただひとつだけ、彼女に欠けていたのは己が許されて存在しているのだという意識だけであり、そしてそれが他の全てにおいて贖えぬ彼女の愚かしさなのだった。
砂糖菓子の様な話を信じ込めるような少女の素直さは疾うに無い。しかしそれでいて、どこか決まりきった戯曲のような御伽噺を頭から信じる愚直さだけはあるのだから世話は無い。
―そして皆末永く幸せに暮らしました―
そんな子供じみたフレーズを後生大事に抱え込む愚かしさ。そこには己こそが全ての状況を動かし得るという無意識での傲慢が透けてみえるのだ。彼女を支える高い知性はそのどこか高圧的な自信をも裏打ちする。must be(―しなければ)という行動は自己犠牲の美しさを盾にとった独り善がりだ。所詮それが誰かれかの支配の及ぶ範囲だということを知らず、幾つかの僥倖に縋り、切り抜けた境遇すら彼女は容易く自信へと換える。

「…だから、貴女なら大丈夫でしょう?」

貴女は世界の全てをその矮小なる己へと還元する術を心得ているのだから

「…ミス・ブレナン?」

小さく身じろぎした彼女は耐えるように瞼を引き下ろし、その眦からまた一筋だけ涙をこぼした。


例えば絡みつく手であったり
向けられた目であったり


随分と昔から自分は自分に求められる事柄を知っていた
だから幼い頃から、稚気じみたものを抑えることも知っていたし、それを行うのにも苦は無かった。善良な父はその様な態度を誉めたし、それが褒められることだということを始めから理解していたのだと思う。
明るく活発な兄は、それでも矢張り自分の兄だったから、しばしば見せたその冷たさには賢き達観があった。少しばかりの年の差だって彼には幼稚なものには映らなかっただろう。真摯というには真剣味が足りないが、それでも兄は自分を理解して笑った。可愛く無い餓鬼だな、なんて肩を竦められながらもその暗部を共有する悦びはそれだけが唯一自分を年相応にさせるものだったのだ。

そして兄が何故そんなある種かなしき性を持っていたのかも、自分は知っていた。数えられる程の幾度かだけ伸ばされた白く細い手。この家のこおりつくまでに冷たい何かを紡ぐその手を兄は幼心に危ぶんだ。
所謂母親像なるものはもとから持っていない。こんな家柄に生まれついたのだから、母の手など触れることが少ないのは当たり前だった。それでも己を抑える事を知っていた自分が、その手を求めたのは何故だったか。別段可愛がってもらった記憶があった訳でもない。それでもその手を求めた過程には何がしかの屈折があった。兄が持っていた賢さは父の為のものでもあった。拙く伸ばされた腕は父を慰めて余りあるものだったし、きっと兄自身がそのようなスタンスを望んだのだろう。自分にはそのような兄は確かに尊敬と呼ぶような感情に値する存在だったから、だから尚更その原因となる母に興味があった。
子供じみた行為で踏み入った部屋の奥で横たわっていた姿。最初は弾みだったのかもしれない。だがそのどこか日に透けるような儚さは確かに死と孤独の哀れなものだったのに、その美は壮絶に自分を惹いた。

それは確かに己が初めて触れる死のかぐわしさで。酷く静かに、そうまるで、侵しがたく壊れやすい結晶に触れるようにして、その白い手を受け入れたのを覚えている

母は父をかたくなに拒んだし、それは自分にとっては都合がよかった。自分は確かにその切り研ぐような母の孤独を愛していたのだから、生ぬるい戯れのようなものなどは排して然るべきものだ。

かぐわしい死の香り
冷たい白い手

幼き自分が何故こうも早くこんな知恵を得たのかはわからないのだけれども、最早その全てがこの思慕の為にある。
だからこのうつくしく閉ざされた世界を守る為ならば何をも厭いはしない。
この顔が、この声が
何を意味するか分からぬわけもないのだが、母がそう望むならば構いはしない。問題となるのは望まれる自分の存在なのであってその所以などはとるに足らないことだ。母はそれでも弱いひとだったから、その執着じみたものなど外に出そうとはしない。不器用な愛し方しか出来ないから、傷付くことを否、傷付けることを恐れて、けして父に縋りはしない。それならば構わない。ただ独占欲などと言う醜い感情はちらりと覗くけれど、どんなに側にいようと自分は元々ひとりの彼女に惹かれでいるのだ。結局実際に絡む手が己のものならばその内にあるのが例え父であろうと問題は無いのだ。


…―そう思って、いたのに。


「ミス・ブレナン?」
「……、」

最早光を宿さない瞳はただ硝子玉のように眼前の光景を映すだけだ。がくりと折れた首はどこか人形のように生々しい。些か酷くしすぎたようだ。

「…でも貴女ですしね」

如何なる艱苦をも耐え忍んだ神の子の如く。茨の冠をも抱くという名分さえあればきっとこの女は大丈夫なのだ。投げ出された両の手だって磔刑に処された救い主のそれに模せばきっと本当に彼女が傷つくことなどないに違いなかった。便利な玩具ではある。侮蔑すらこの女には遠いのだから、このような行為を遠慮する必要もなかろう。
…いつからだっただろう。ただほんの少し手の先を傾け。ただそれだけで此の手が容易く傷つけられる存在があることを知った。言葉すらも持たない端女ではあったが踏みにじられる健気さは悪くない。傷つけるというその行為が何時しか酷く快い。そう、この愚かな聖女気取りの女の事にしたってそれに変わりはないのだ。

「…愚かなミス・ブレナン、それでも貴女は役立たずではありませんでしたよ」

母はかなしい程に不器用なひとだった。妬いてやるいじましさが父には伝わらなかったけれど。

「…でも貴女は些かやりすぎましたね」

…そう最早貴女は、用済みだ

力の入らない体をゆっくりとベッドに横たえてやる。皺の寄ったシャツを着ながら乱れた髪を手で撫で付けた。
…―まだ16ね、

そういえばそんなことを、言ってもいた。物も分からぬくせに酷く満足げに笑ったものだ。

「…、」
「…ミス?何か言いました?」


囁くように漏らされた言葉が床に散らばる。

「…ウィリアムくん……何故、こんな?」

今更だ。興醒めに似た呆れに自然声が落ちた。

「…貴女が望んだことではありませんか」

あの端女の身代わりをかってでたのはまさしくこの女だ

「…ちがう…違います。そうでなくて…」

そろりと伸ばされた手が自分の服の裾を掴む。躊躇いがちに押し出された吐息はそっと転がった。

「…ミス?」
「…あなたは…なにを、苛立って―」

ぞくりと背を伝う感覚に反射的にその手を振り払う。女は為されるままに力無く崩れおちて、そのまま倒れ伏した。
どくりと鳴る鼓動がいつか見た横顔を思い起こす。力無く座りこみ、頼りなく弱いそのものであった彼女が。ただ一言先生と呼ばれだ、それだけで。毅然と立つその姿は例え偽善でも眩しくは無かったか。

「っ……、」

上着を羽織り、きつくタイをしめる。


何を苛立つ、だと?
母は酷く美しい。その孤独こそが自分を惹く

それなのに何故だろうか
解かれた髪に自分を拒む母を見るたびに
叶いはしないと分かっていて父を求める母を見るたびに

感じるのは確かに苛立ちなのだ

傷つけるその快さに紛らわせても、その苛立ちは収まることは無い。
確かに側にいるそれだけでいいと思っていたのに。
支配すらできる己を知れば知る程に、その感情は募る。

傷つけたいのは
傷つけられたのは

誰、だなんて

「…余計な、」

分かりはしない、分かる筈もないだろうこんな感情などけしてこの女には理解できはしまい。たかが使用人、そうこの女から自分が学ぶことなど何一つ無い。そんな相手に知ったような顔をされるなど冗談ではない。

「…貴女は私の、教師ではない」

そう、教師などではない。ただびとたる、愚かな女。
…救世主を、模した。
浮かぶ自分の思考に愕然とする。
救い、だと?何を、何から?そんなものを求めなければいけない程自分は堕ちていない

「……貴女なら私を救ってくれるのでしょう?…」

呟いた台詞に意味など無かった。ただこの女が犠牲たりえる理由を拵えてやっただけだ。

「…馬鹿馬鹿しい…」

まとわりつくような視線を置き去りにしてドアを開く。噎せかえるような籠もった部屋に、冷気が流れこんで頬を叩き、頭を冷やす。

「……愚かですねレイチェル・ブレナン」

聞いているかなど知らないが、今言ってやれるのはこれだけだった。そう教師などではない。身の程も知らぬ詮索はいい加減にするがいい。
閉ざされたドアを振り返りもせずに歩き出す。
…母に聞かせるヴァイオリンの練習でもしなければならない。こんなことを、してきっと明日はまた愚かなあの女がなにがしかをやらかすに違いないのだから、せめて朝のその一時くらいは母の気を紛らわせてやろう。ふと廊下の厚い絨毯の上から視線を向ければ、窓辺を照らす筈の月光は流れる雲に隠れて消えた。

…左右対象のヴァイオリン
聞かせる相手の為だけに捧げられた音色

歪んだ、その美しさ

ゆが、み



…―まだ16ね、



「っ!」

衝動のまま叩きつけた飾り皿は甲高い音をたてて割れた。砕け散った精緻な文様は二度とその姿を誇ることがないだろう。

…磨かれた表面に映り込む、己が姿。

砕け散ったもの
手折ったはずの高慢
偏執するこの歪み


かぐわしい香りだとか
(清らかな罪だとか)
縛りつける欲望だとか
(傷つけられたその部位だとか)


「……誘蛾灯、だって?」


身を焦がす様な激情に、浸るようなそんな真似を?


磔刑に処された
焦がれる追慕に

貶めて
傷つけて

そうして

手に残るものをはからなければならないのだと?


愚かしい
愚かしい


私は自分のすべきことを知っている
間違いない
間違えはしない

そう何一つ間違えはしない

だから知っている



…―ねえ先生、貴女なら大丈夫でしょう?



ほんとうに愚かしくあったのは誰だったのか、なんて。







焦がれるような
激情、劣情、愛情に

全てを狂わされたのだとするならば