死神の掟とやらが、どの程度の精度で守られているものなのかは分からない。ノートのルールを鑑みるに、どうやら酷くシステマティックなもののようであるが。神、とりわけ生死を直接に弄ぶような死神が、構造に縛られるのは如何にも滑稽に見える。そう考えると、怠惰に席巻されているという死神界は、精緻なシステムというものの行く末を思わせもするのだ。

そんな如何にも胡散臭い掟のひとつによると、小学校に上がらないような小さな子供には、死神はデスノートを渡すことは出来ないのだという。対象年齢、と言うのも皮肉な話だ。それが善悪の区別が付く年齢の境界を定めているのだとすれば、ますます以て愉快だ。人を殺すことに意味を、罪を定義付けるのは知識の有無なのだろうか。心神喪失時の犯罪が罪に問われないように、己に積み上げたものの如何で、散らせた命の対価と足りえるというのだろうか。
同じ命が閉ざされるときに、それが悪意によって齎されていなければ許されるとでも言うのか。忖度や酌量を施すと…―他でもない死神、が。


『死神なんかと一緒に、しないでもらいたいな…ー』

「月くん」

久々にこの耳で聞いた肉声は、だけれども大した感慨も無く。下らない空想を中断させるだけの効果があっただけだった。





一体何が、それら二つを隔てるのか ( 答えを知りたいと願いますか )






竜崎は本当にどうにかなってしまったのだろうか。

僕がキラで無いかもしれない。そんな戯言を漏らしたあの日から、どうにも態度が曖昧だった。挙句の果てには、(自分の記憶が正しければ、)まだ53日間経ってないというのに、今斯うして男が鉄格子の前に立っている。男が何のために此処に来たかは当然知っていた。だからこそ、この時が早まった理由が皆目分からないのだが。

「相沢…さん、…」
「月くん…これからちょっと、場所を移動してもらう」
「……どういう、ことですか?」
「…それは言えないが、…」

怪訝な顔をつくりつつ、そっと久方振りに見る相手の顔を窺った。記憶の中の其れと、当然大差はない。外は夏だろうに暑苦しい髪型だ、などと下らない事を考えなくもなかったが、今は兎に角急な来訪に驚いている表情を崩すわけにはいかない。

「分かり、ました…どうすれば?」
「ああ、今から此処を開けるから、すまないがまた一度目隠しをして、移動場所に行ってもらうことになる」


嘘ではなく沈鬱な溜息が口の端から漏れ、自然と顰めた眉に落胆が滲んだ。 父に。あの心優しい、尊敬する父に心痛を与えることになる。…これから駐車場に向かえば、父がミサを乗せて車で迎えにくる筈だ。竜崎の提案は大抵、合理的かつ酷く率直なものばかり。他にやりようがあるような気もするのだが、このような流れは竜崎自身が、自分を納得させる為の手段なのだから、結局のところ竜崎の好きにさせるしかないのだろう。
鉄格子が開かれ、相沢が中へ入ってくる。

「立てるか?」
「は、い」

萎えた足を奮い立たせて、なんとか立ち上がる。男が手を伸ばし、足の拘束ベルトを外した。

「……、」
「あ、悪い痛かったか?」
「……いいえ」

一瞬何か言いようのない寒気が走り、肩を揺らす。しかし別に言うように痛かったわけではない。

「じゃあ…、いいかな」

相沢は言い難そうに手に持った目隠しを掲げて見せた。どうせ連れて行かれる場所はわかっている。酷く無駄なことだとは思ったが、精々殊勝に頷いた。

この時、捜査本部の面々がなにを考えていたのか。“以前”は結局知ることはなかった。大体この監禁期間に関する話題は矢鱈とタブー視されていて、解放されたという結果以外に捜査本部の人間が言及することはほぼ無かった。それが自分やミサを慮るものか竜崎に憚ったものかは分からないが、当時は問い詰めたいとも思わなかったからそのままになっていた。だが、こうして二度目を迎えてみれば少し気になりもした。特にこの男は竜崎のやり方…その独裁的なそれ、に反発して本部を一度抜ける。今現在、竜崎は火口の裁きの中監禁を続けているのだ。

「……相沢さん」
「ああ、何だ?」
「竜崎は、」

視界は覆われているが、相手が身構えたのは分かる。しかし口にしてみると途端に何を聞けばいいか分からないような気もした。歪な沈黙に唇を噛み、ふと脳裏に浮かぶまま言葉を入れ替えた。

「……と…父は…、…如何していますか」

ふと、男の雰囲気が変わる。

「……局長は、…」
「っ、すみません、いえいいんです。行きましょう」

萎えた足を踏み出し、鉄格子の方へ一二歩進む。慌てて背に男が補佐についたが、刹那やはり寒気の様な物が走った。一月以上一人でコンクリートの部屋に居たせいか、微妙にその対人距離には歪みが生じているような気がする。そろそろと進める足は冷たい。…けれど、とんでもない失態に目の裏には灼けるような熱が弾けていた。

――自分は何を尋ねた。これから起こる事を知っている筈の男に、何の返答を期待したのか。返る声音に憐憫の色が混ざり、口調が柔らかく。そんな対応に一気に目が覚めるような気がした。 あるまじき気の迷いだ、容疑を晴らすに同情を引くのは悪い手ではないが、取り縋るような惨めさを自分に許した覚えなどないのに。やはり少し他人と相対する距離感に狂いがある。

こんなことではいけない。これからは、牢を出て捜査本部で過ごすことになるのだ。軽く唇を噛みしめ戒める。…だけれども、まるで火照りのような苛立ちと、妙に底冷えする感覚は一向に収まらず、ただ浮かされたように足だけを機械的に進めていた。







「おまえ達二人を死刑台へ連れて行く」

父の声は震え、酷く陰鬱な響きで車内に落ちた。…こんな、声をしていたのだっただろうか。正直当時の記憶はもうどこか遠い。忘れられるような事ではないのだが、ある意味興奮状態にあった所為もあって、吹き飛ばされるように細かい記憶は霞む。
頬がこけた父の顔は、だが矢張りまだ若々しい。…父の亡くなる直前、粧裕の誘拐やニア、メロとのあれこれを経て、父は凄絶な表情を常に貼り付けていた。それに比べれば、今斯うして眼前に居る父は髪も黒々としていて、こんな時なのに少し安堵めいた感情が掠めた。

反射的なやり取りを交わしている間に、車は高架下の空き地へと滑り込んでいく。ルームミラーの上で光るレンズの光は、極力目に入れないようにしてはいたが、やはり存在を意識するだけで不愉快だった。


「…Lらしく、ないじゃないか…まるで――僕がキラじゃないと気が済まない、みたいだ」


口に出した途端に既視感に思い当たって、内心だけで苦く笑う。これは竜崎と初めて殴り合いの喧嘩をした時に吐いた台詞だった。本当我ながら、記憶が無かったにせよ、的確と云うか残酷な台詞だ。竜崎は正しく、僕がキラじゃなければ気が済まなかったのだから。唯其の一点、それだけを掲げ、立証できていれば、彼は殺されることも無かった、其れくらいに大きな一点なのだ。

そして竜崎自身は其れに気付いていない。あの、世界一の名探偵が自分のことにばかり疎いのだと本当に理解したのは、何時のことだっただろうか。記憶を失う前、手錠を掛けられた後?…もしかしたら、彼が死んだ、其の後だったかもしれない。今、この台詞を聞いた竜崎は何を思っているのだろうか。そんな好奇心が湧かない訳ではなかったが、何故か面と向かって言わずに済んだ事に少しほっとしていた。

誰も居ない空き地で、ただ車の中には緊迫感だけが漂っている。濃く橋桁の影の落ちたあたりまでのろのろと車は進み、まるで名残を惜しむように緩やかに止まった。

「……ライト」
「っ、」

押し出すような父の声色に、思わず肩が跳ねる。だが父は其の後を続けずに、また暫く黙ったままで居た。

「と、うさん?」
「お父様っ、に、逃がしてくれるの?」

ミサが縋るように言葉を繋げる。少しかすれた、その声は酷く哀れに響いた。


「………ライト、逃げるか?」
「……――え、?」

運転席で前を向いたまま、父はぽつりと呟いた。…何を、言っているのだろう。竜崎から与えられた台本、記憶の中のそれとはまるっきり違う台詞だ。父の、僕やミサに対する憐憫かとも一瞬考えたが、この場合は芝居を続けきることのほうがメリットになると父だって重々分かっている筈だった。

「…ただし、逃げるなら私を殺していくんだ」





―…よかった、お前はキラではない…―
結局父は、父だけは僕がキラだと知らぬままに逝ったのだった。竜崎には、最期には教えてやったし、他の者に関しては…そもそも僕が一人で死んだようなものだ。父にお前がキラだ、と言われていたらどんな心地がしただろうか。別に、大したことは無かったのかもしれない。実際ニアに宣告された時も、稚拙なミスに苛立ちはしたもののその宣告されたこと自体に何かを感じたわけでは無かった。 けれども、先程から何故だろう。やはり父の姿を見ると、何処か怖気づくような気分がある。…善良で、心正しく、己に羞じる事の無い。父の様な個人を、僕はずっと尊敬し、守らねば為らないと思っていた。新世界、は父のような愚かでも真摯な人々の、為にあるべきなのだ。

――けれども、僕は一度、父さんを殺した





「な、に言ってるんだ、父さん…」

返す声が無様に震え、演技の幅を超えた揺れに密かに焦る。こんな筈ではなかった、何故父はこんなことを言い出したのだ。

「キラを死刑台に連れて行く途中で逃がした、となっては私に償う術は無い…それに、それが己の息子であれば、間違いなく私はその責を逃れられまい。…それなら、其の前に、お前が私を殺してくれ」
「そんな、馬鹿な…!出来るわけない、父さん、僕は…」
「ならば、!…お前が逃げないなら、私はここでお前を殺し私も死ぬ」
「……っ」
「選ぶんだ、月」

これは結局、以前のパターンでもあった二択であった。…勿論其の”時”に僕がキラであったならば、という竜崎の前提の下での二択であったが。自分が助かるためにキラの力を使い父を殺して逃げれば、キラ確定……といってもキラの殺人方法にどんな力、を竜崎が思い描いていたのかは分からない。この状況ではノートも手中には無いし、仮令在ってもどう考えても監視下にあるこの状況では書けないだろう。正直”あの時”自分がキラであったとしても、そして空砲でなかったとしても、他の対処が出来たかはわからない。よく考えれば竜崎の手落ちだ、それも酷いミスだ。馬鹿野郎め、肝心なところですかんと抜けるのが竜崎だ。無性に酷く腹立たしくなってきた。

「とう…」

そう、これは以前と何も代わらない。竜崎のくだらないミスと其れに気付かぬ全員での茶番だ。 ……なのに。
顔から血の気が引いて、唇までもが震える。ただ父が、はっきりと其の選択肢を口に出した、其れだけの差異、なのに。



僕はキラだ。其の為なら父だって殺さねば為らない。大義の前の犠牲だ、当然の優先順位。…もちろん、今回はそんな必要は無い。拳銃は空砲で、これは竜崎一人が満足するためのお芝居だ。…”今回”は、そんな問題にはならない。だって竜崎もニアも、誰だって。もう殺し方を知っている。父が死ななければならない事態になんか、なりはしない。

だから、父を殺すことなんか考えなくていい筈だ。もう二度と、殺さなくて、いい筈だ。

握った手の冷たさ、単調な生命維持装置の電子音。
虚ろな眼と、骨壷を抱いて泣き崩れた母の姿。



「ら、ライト…っ」

ミサの声にはっと我に返り、顔を上げる。ほんの一瞬とはいえ何故こんな場で顔を俯けてしまったのだろう、とんだ油断だ。しかもぐるぐると思考が巡ったまま、米神が熱い。泣き出す直前の、感覚みたいだ。まるで、父が死んだあのときのように。

「父さん、僕は、」
「ライト」
「僕は、キラじゃない……だから、止めてくれ」

…こんなことを考えている場合ではない。これはお芝居、茶番、さっさと終わらせてしまえばいいだけの話だ。無駄なことばかり考えていては、折角の機会なのに、竜崎にまたもあのどうしようもない監禁生活に連れ戻されてしまうかもしれない。
兎に角この場を終わらせればいい。必死になって言葉を紡いで、父に懇願の目を向ける。あと少しで終わるのだ。
あとは、最期のパフォーマンスが終わりさえすれば、竜崎も納得して…――


必死に頭を回して、けれども視界に飛び込んだ其の形に、ひゅうと喉奥が高く鳴った。

小さくてもずっしりとした黒光りの存在感。父の分厚い掌にしっくり収まるサイズなのに、無駄に重たい音のするその武器。そして向けられた銃口、その暗さといったら。
ゆっくりと、それが持ち上げられる軌跡が、スローモーションのようにはっきりと目に映った。



高い銃声が、不意に耳の中を劈く。

今、鳴った訳じゃない。当たり前だ、父の手の中に在る拳銃に弾は入ってなんか居ない。父が自分を本当に殺すわけなんか、最初からありはしなかったのだから。そんなことに驚いたなんて、そんな。今鳴った、銃声は。

あれは、あれ、は――…

父の身を貫いた銃声の、嘘のような軽さ
この身を引き裂いた熱い弾丸の、突き抜けるような痛み
どちらもはっきりと、覚えている。映画の中の効果音よりも軽い、在りえない音響。吹き出した血の多さに、視界が暗くなったことも。



死ぬとは、どういう感覚であったかも。



「……っ!!!!…ああぁあぁっ……う…ううっ…!!!」

「月?!」
「ライト、っ!」

堪えきれない叫びが零れ落ち、冷たい車のドアに倒れこむように体をぶちあてる。がつん、と鈍い痛みが伝わったが、急に鼓動が高鳴り息は切れ、そんなことに構っている余裕は無かった。きつく目を瞑り、硬い金属の感触に縋るように身を寄せる。がくがくと身が震えて、あろうことか、とうとう涙までが目端から滲んだ。

「とう、さんっ……、止めて、止めてくれ…っ!」
「ら、ライト…っ、ライト」

父の慌てた声に重なるように、細く電子音が響く。

『夜神さん』
「ぁ、ああぁ、」
「月っ、…りゅ、竜崎!」

確かに聞こえたのは竜崎の声で、ということはこの茶番を終わらせる気になったということなのだろう。しかし、硬く瞑った目は接着剤で貼り付けたように開かない。力を入れ続けている眼窩の下がびりびりと痛い。フラッシュバックする黒い銃身、それだけで口の中が乾きあがった。


酷い醜態を晒しているのだという、何処か冷めた自覚は確かにあった。

ならばこれもまた、演技なのだろうか。けれども震えは止まらず、いつの間にかとうとうと流れ出した涙は胸元まで滴り落ちている。ひどく、寒い。寧ろ蒸し暑いような気温であるはずなのに、一人凍えてしまいそうに寒かった。そう、一月の倉庫も、酷く寒かった…―


殺人犯同士地獄で会おう。
父が言えなかった台詞。それは永久に果たされることの無い、約束だ。
あらゆる意味で、僕はもう、どうしたって、元には戻れない。


ぜいぜいと引きつるように喉が震え、過呼吸を繰り返す度に肺が痛み眩暈が強くなる。気を失うなんて真っ平だ。こんなことで、……もう二度と、あの感覚は味わいたくない。



父に抱きすくめられたのだと気付いたのは、しばらくしてから。
もう一度目を開いて父を見返すことが出来るまで、更にそれからしばしの時間を必要とした。