消えた鍵の行方 |
きっと冷たい雨でも降っていれば良かったのに。 その日は笑い飛ばしたくなる程鮮やかな快晴だった。 ベッドに体を投げ出して天井を見つめる。幾度となく見つめたアイボリーのそれは酷く無機質に 室内灯を照り返していた。未だ違和感の残る左手。もはや繋ぎとめる何物をも存在しないのに 纏わりつく様な感触は依然離れなかった。 ごろりと右側に向き直ると、おろしたての黒スーツにくっきりと皺が寄る。 ネクタイを緩める気にもならず、ただぼんやりと広すぎるベッドに投げ出された両手を見ていた。 考えてみればこのベッドで寝るのも四日降りだった。四日前の夜にはやはりこの天井を見つめながら 眠ったのだった――今は亡き男と共に。 踏みしめた砂利の感触は酷く久しいものだった。 この時期にしては強すぎる日の光がそっと首筋を灼く。晴れ渡った蒼天には雲ひとつなく、低木ばかりの 据えられたこの場にはそれを遮ることを期待できそうなものはなかった。 自分はこうして外を歩むことなど酷く久しぶりだったのだから、むしろそれなりの感慨を持って 見られるような気もしたのに、抱いたものは唯単に僅かばかりの煩わしさだけだった。 皮肉なまでのその空模様を一瞥してから、静かに前を歩む父の背に続いて砂利道の奥にある低い建物の 門を潜る。黒白の鯨幕が、ただ風もないその庭に静かに揺れていた。 行われたのはあの男の密葬 竜崎――L、の葬儀がそうしてしめやかに執り行われた オーソドックスな仏式の斎場。華々しすぎぬ程度に抑えられた仏花の彩が、壁一面を埋め尽くし 金箔の張られた祭壇をその中に埋没させた。別に、見慣れぬ光景と言うわけでもない。極普通の葬式風景は唯 その中央に据えられるべき遺影と位牌が、抜け落ちたように存在しないという点でのみ異彩を放った。 ――下らぬ配慮だ ただ空回るだけのものならば それでもそれはたしかにあのおとこの 御座なりな型どおりの儀礼は淡々と進む。 どうせ弔問客の一人だって居るわけではない、内輪の儀式だ。読経の声にもその一種の侘しさに配慮した種の物で、 正直そういった空気は何処か煩わしかった。彼と一緒に捜査をしてきた、この場の人間。 何かを堪えるような表情だけが共通していて、唯其処に帯びる感情の種類が哀しみなのか、憤りのようなもの なのかの差異があるだけだ。自分もあんな表情をしているのだろうか?――堪える感情があるのは、確かなのだが。 抜け落ちたそれら全て、ただ流石に其処に据えられた棺、そのもの自体はきちんと存在した。 それでも男が横たわるその白い箱をじっと見据えても、唯其処にある一造りの箱は乱暴なまでに 其処に放置された印象しか与えない。 こんな筈ではないのでは、という疑問が何処か他人事のように響く。 長い間待ち望み―…猛烈に求めていた、男の死。その帰結にしては目の前のこの情景は余りに卑小で呆気ない。 男はもう動かない。もう、自分を煩わせることもないのだ。ただそれだけのことを、もう随分と長いこと 願ってきた気がする。実際には1年にも満たぬその期間なのに、若しかして今まで自分が過ごしてきた18の年月の中で、 此れほど一つのことを追い続けたのは初めて、なのかも知れない。 願い続けるまでもなく、大抵の事は思い通りになった。そしてそれは当然の事なのであって、其処に 在り来たりな感傷を感じるほどにも、愚かではいられなかった。 ただゆっくりと歩むだけで、先へと繋がる緩慢な道程に、快感を覚えはしなかったのも確かなのだが。 そして結局はいつも通りに、願いは叶いこうして男はこの箱の中に納められている。 これで、当然なのだろう。いつだって叶わない願いなどなかったし、これからもきっとありはしないのだ。 なのに何処か分かっている。言い聞かせるようにして繰り返すこの 言葉の羅列が、ただ自分を捻じ伏せる為だけの目的で紡がれていることを。 騙されてしまえない、自分に、感じるこの感情の種類はきっと怒りというのであろう事を。 渦巻く読経の声に、微かな痛みが頭を刺す。頭を抱えるわけにもいかず、軽く眉を顰めて 小さく息を吐いた。 視界に映る仏花の白。純白を思わせる、群。棺の白檀を、一層映えさせるその 禍々しい色彩が、視界の全てを塗り潰して弾ける。断続的な頭痛に、吐き気すら覚えながらただ じっと体を固めて時が過ぎるのを待った。 「月、ほら…」 「っ……、」 憔悴した父の声に我に帰ると、もう出棺の刻限らしく捜査員が棺に花を手向けていた。 何時の間にか膝の上できつく握り締めていた掌をゆっくりと開き、それからそっと パイプ椅子から腰を上げた。父はその緩慢な動作を行う間、ずっと自分の方を見ていたが、何を言おうともしなかった。 棺にゆっくりと歩み寄ると、男の安らかな死に顔が見える。 まだ何処か動きの固い己が体に内心舌打ちしながら、棺の淵に寄りかかるように手をかけた。 怒りで目の前が見えなくなったのは、たった今のこと。なのに、今はもう何に対してそんな激情を喚びおこされたのか すら思い出すことも出来ず、ただ視界に映る見慣れたはずのその姿を見ているだけで、何も感じない。 隣で俯いている松田は大仰に泣いている。窘めるようでいて、その様に他の面々が安堵しているのも知っている。 自分も泣いてみせればよかったのかもしれない。それくらい、そんなに難しいことではないのに、 そういったことを考えることすら今はただただ億劫だった。 形式的な表情を浮かべることにすら失敗し、結局は無表情のまま周りに向けていた意識をもう一度棺に引き戻す。 寧ろ、下手な失態を犯さずに済み良かったのかもしれないが、しかしあの「瞬間」感じた足元から駆け上がるような 激しい愉悦や快哉は、己の感情であったことが信じられぬように今では遠く感じる。 あんなにも嬉しかったのに、失態も何も、意識したとしても笑みを浮かべるのは中々に苦行だ。 何だか、何を考えるのも面倒くさい。 感情を動かすことが煩わしい。 ただ目の前に横たわる「結果」だけが全てで、他には何もありはしない 「………竜崎…」 硬質のその表情に、何処か純粋な興味に似た衝動のままに手を伸ばして そっと頬に掌を滑らせれば冷たい感触が返ってくる。不思議に欠落したものを感じさせない、 その感覚は確かにまだ何処か補完されたものだ。ただそれでも抜けるように白い膚は確かに その棺に収まるものであったし、睨めつける強さのない瞳など男には似合いはしないのだが。 するするとそのまま力の抜けた掌を滑らせ、右手に、あの際に己が肩を握りしめてきた掌に行き着くと、 もう二度と握り返さないそれをゆるく握った。その行動に意味などない。ただ単に、自分を警戒することのない 男が物珍しかっただけだ。何処までも逆らわない冷たい感触は、何時の間にかじっとりと汗ばんだ己の掌を 寧ろ愛おしむかの如くに慰んだ。 「竜………」 そっと目を伏せた先には、馬鹿みたいに拙く繋がれた手。その手首にはまだ薄く 自分と繋がっていたあの鉄条の輪が付けた痕が残っていて、まるで贖罪だと唐突に思った。 この痕はこの時の止まった躰からもう消えることがない。磔刑に処された罪人の穿たれた掌の痕の様に、 それは紛うことない罪の証だった。 爪を立てるようにしてしがみつかれたお陰で、自分の肩にはまだうっすらと傷がある。 それでもこの些細な傷はすぐに消えて失せるだろう。そう、この馬鹿馬鹿しい儀式を終えて その後の雑事に振り回されてでもいる間に、ほんの数日で。 理不尽なまでな格差に寧ろ、遣り場のない感情を持て余す。 再度小さく彼をよんでみても、自分の熱が伝わった冷たい掌はどこかぐったりと重みを増すだけで、 それ以上の反応を返すことはないのだった。 「あ……月、くん…」 捜査員の誰かの声が遠慮するだけの慎ましさでかけられる。 はっと顔を上げれば此方を向く全てが心底同情する、といった表情で諭す色を瞳に浮かべた。 少しばかりの不快に、幼さを盾にとるような気持ちで、小さく瞳を伏せる。意図せず震えた目元には やはり浮かぶものはなかったけれど、其れでも十分相手の口を噤ませるには足りた。 逸らされ、または寧ろ強められた幾つかの視線は伏せた瞳の上をなぞる様に滑っていく。 黙りこくった自分と、その周り全てを、 ただ拒絶するその小さな動作が凍りつかせているのだとはっきりと分かっていた。 些か、余裕のない相手には酷なことをしてしまったとは思う。仕方がなく 息を呑むような空気に矢張り何処か煩わしさを感じながら、勘気を起こした子供が謝罪の為に大人の機嫌を 伺うその態度で、もう一度顔を上げなおした。 「……すいません……」 「…いや、……」 曖昧に濁された声は、苦味ばしったそれで、同情する形式を持って自分を縛る。 漸くその何時も通りの愚かしさに、少しばかりの侮蔑(つまりは感情であるそれ)を思い出し、寧ろその事に小さく安堵した。 演じることを忘れたわけではない。 今度は上手く浮かべることが出来た、謝罪の表情を張り付かせたまま、いま少しの猶予を懇願する色を籠める。 困ったように返される視線の中、父だけがただ小さく一度頷いた。 もう一度、握った右手をじっと見詰め返す。だらりと力なく垂れたその節くれ立った指が、 もう自分を糾弾し、罪を問うことは出来ないのだ。 男はもう動かない。もう、自分を煩わせることもない。 願いは叶った、もういいだろう?緩慢なその歩みを、再開すれば、いい。 「りゅうざき」 呼び続ける名は、それでもこの男の墓標にすらなりえぬ名だ。 灼くような怒りが、再び頭を刺すのが分かる。それでも明快な理由を与えられない激発には、矢張り 自分の理不尽なまでの不甲斐無さへの怒りしか感じられない。――自覚できない、という意味において。 目の前の情景を振り払うように一度きつく目を閉じて、漆黒の世界に浸る。 伝わる感触だけが矢鱈とリアルな事に、むしろ慄いて慌てて瞳を押し上げた。 握り締めていた右手を、ゆっくりと男の胸の上に戻してやる。差し入れられた白い花が、添えられるあざとさで その手首の痕を覆い隠した。 小さく一歩後ろに下がり、半ば頭を落とすようにして僅かに頷く。 それで確かに緩和したその空気に、今度はこちらが苦いものを感じながら、 そっと自分の肩を叩く父に、ぎこちなくもう一度頷いた。 白い箱を静かに閉ざし、3人ほどの捜査員がその棺をゆっくりと担ぐ。斎場の庭に止められた車へと ただ粛々と運ばれていく様は、あの贅沢を贅沢と思いもしない男には少し似合いで、 ようやく小さく笑いにも似たさざめきが、頬を震わせた。 敷き詰められた玉砂利の白、その感触を足裏で確かめるようにしてゆっくりと歩めば、父はそっと車の助手席に乗り込み 自分を含めた他の全員に、目で謝意を告げた。 構う事はないという意味で模木が局長、と朴訥としたあの声で呼べば、父は少し緊張を解かれたように、行って来る と呟いた。 走り去ってゆく、車。送迎に赴くのは父だけだ。残された体裁でぼんやりと小さくなる影を見遣っていれば、 先程と同じ視線が向けられていることに気付く。 苦笑混じりの表情を、今度ははっきりと浮かべることに成功し向き直った面々にゆっくりと、 僕らもかえりましょう、と呼びかけてやることが出来た。 後 戻 |