結果として、君と僕は結ばれなかった |
『この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは反対に、彼が王だから自分は臣下だと思うのである』(カール・マルクス) 銀色が薄い膚を突いて震える。指先から一雫の赤が膨れ上がって流れた。 夜気を引き裂くヘリの轟音には、やはり慣れることが出来そうにない。駆り立てられるようだった往路に較べ、復路ではそう浮かれてもいられない。第三のキラは無様な屍体と為り、眼前に浮ぶのは何とも非現実的な存在と何の変哲のないノートが一冊。そして、指先には小さな傷。 「…夜神くん、大丈夫ですか?」 「うん?…ああ…ちょっと疲れたけど…それは竜崎もだろ」 そう言いながら月は竜崎の眼球をまじまじと覗き込んで、その色合いを確かめた。問いの答えに唐突に身を乗り出した月に、竜崎は些か怪訝そうに顰め面をしてみせたが、月は意に介さず覗き続ける。まるで幼児が周囲に見境の無い興味を抱くようだと竜崎は呆れたが、夜神月の突拍子も無い幼児性は彼自身が言うように、意外と珍しくもない事だ。月が子供である事を錦の御旗のように振り翳せば、普段の態度と相俟って大抵の事は許される。竜崎とて例外ではない。 「疲れたからってヘリを墜落させるなんてのは無しにしてくれよ」 「そうですね、何なら、書いてみますか」 其れに、と続けた竜崎の視線の先を追って、漸く月は竜崎から目を逸らす。別段意外でも無さそうな顔で月は無造作にノートを持ち上げた。 「もう信じたの?」 「先程名前を照合したのは月君でしょう」 「そうだけど、それだけで?」 「別に、信じるに足らぬと判断する理由が無かっただけの事です」 ふうん、と首を傾げると月は不意に口角を吊り上げる。喉奥を押し潰すようにくつくつと嗤い、厚いガラス窓から外を見た。夜闇に塗り潰された窓には、月自身の顔がくっきりと反射している。竜崎はある程度オートマティックに動く操縦桿を惰性で弄りながら、その窓ガラス越しに月に視線を合わせた。 「そんなに残念だったんですか」 「残念?」 「キラの殺しの手段が其れだったことが、」 「まあ、そうかもね」 つつ、と薄いノートの背表紙を指先で撫ぜていた月はしかし、急にぴくりと指を止めた。竜崎は一つ呼吸をする間だけ待ってから、彼の指を掬う。引き攣れた様な小さな傷があって、黒ずみかけた赤が擦れてのびていた。 「どっか引っ掛けたのかな」 月の嗤いは空々しい。別段其れは何時もの事だ。だから竜崎が問いを重ねたのは全く持って単なる気紛れだった。若しかしたら少しだけ饒舌に為っていたのかも知れない。何せ”キラの死”を見届けたばかりなのだから。 「もしそのノートで切ったのだとしたら、なにかあるかもしれませんね」 「何かって?」 「文字で人を殺せるなら、その白には何かを判定しうる意志があるのかもしれませんよ?こういう言い方が御嫌なら、OCRのようなシステム構造なのかもと言い換えてもいいですが」 「…悪趣味だな、そんな下らないこと考えてたんだ?それで…僕には何が起こるのかな」 竜崎は意地の悪い笑みを浮べた月を見返す。些細な違和感は先程からあったが、いま少し明確な形で彼の前に在った。急に傷つく事を止めた月は、夜空の上を飛んでいるこの密室の中で、酷く幼く傲慢だった。 「貴方の血を読み取って、そうですね、効力を発揮するのでは面白くありませんから…この世ならざるその力を分け与えてくれるかもしれませんよ」 「そう?じゃあ」 竜崎の手から指を引き抜いて、月は外気に冷たく凍るガラスに指を乗せた。きゅい、と高い音を立ててその上を白い指が滑っていく。くの字に折ってその軌跡が止まった所で月は堪えきれぬように吹き出した。たった一文字のアルファベットを象るその蒸気の跡は、紛れも無い”名前”だった。 「こんなことで、僕は君を殺せるようになったのかな」 「そちらの方も、やはり顔と本名が要るのでしょう」 「ふふ、良かったね竜崎。死ぬところだったじゃない」 月が肩を竦めたのに苛立って、竜崎はもう一度彼の指を掬う。 「もしくは、力の宿ったその血で綴るしか効力を持たないのでは?」 露に冷たく濡れた指を絡めて、そのまま口元に持ってゆく。強く吸えばただ水気ばかりが舌先に乗り、ほんの僅かに溶け出した鉄が薫った。躍起になって竜崎は裂けた其処に歯を立てて引く。ぴくりと指先が撥ねて竜崎の歯の裏を叩いたが、それからすぐにじわりと染み出る液体の味が広がった。 「……何?それって死にたいの?」 「少し愉快じゃないですか。血文字でしか殺せないなんて、きっと貴方が行為を続ければ、自らを殺しますよ」 ばらばらと、ヘリのローターの回転音が今更のように耳朶を突き刺す。月はほんのすこし呆れたように竜崎を見返して、また酷く嗜虐的な笑みを浮べてやる。下らない台詞を吐きながらも、咥えられたままだった指を無理やり引き抜いた。 「何か下らないよね、…竜崎って」 歯形の残った指を見て眉を跳ねた月は、先程と全く同じ姿勢で竜崎の瞳を再度覗き込んだ。 「物の見方ってすぐ変わる物だと、僕は今日感動したんだ」 黒いノートを触れば死神の姿が見える。竜崎にも其れは経験したこともない…―馬鹿馬鹿しい、…驚きであったが。 「自分が死ぬまで書き続けるのは竜崎のほうだろ?僕はそんな酔狂な事しやしない」 乱暴に身を翻した月の動きに、手錠の鎖が機器とぶつかり無秩序な音を立てた。夜空を滑って、進んでいくこの空間はもうひと時も続かないだろう。 「馬鹿すぎる、それならいっそノートでも書いてれば?」 月は甚く乾いた感情で、手の内の黒を見詰めた。希求してた筈の物なのに、その期間の記憶が無いのでは如何にも取り戻した喜びも様にならない。竜崎の戯言のように、いっそオカルティックな手段なら実感でも沸いたのだろうか。 「…ノートに名前を、ね」 竜崎は唇の端に残る味をべろりと舐めた。すっかり拗ねたように横で身を縮める子供が、傲慢な君主としての性を取り返したことは恐らく僥倖なのだ。これが終焉の味だと思えば、馬鹿馬鹿しいほどに全ては原始的だ。血を流して君臨するのは古来より人心を惹くに容易いパターンでもある。月くん、と呼びかけて竜崎は口を噤む。二度とこの子供は自分を信じてくれないなどと下らない理由で泣く事はないのだと思えば、少し可笑しかった。 操縦桿を倒して帰路を急ぐ。窓ガラスに書かれたLの文字は、歪に雫を滴らせて歪んでいた。 月の言ってる"物の見方"とは言わずもがな。 針の血で文字を書くのは未だに無茶だと思ってる。 戻 |