其は王の冠を象る矮小な


月くん、と竜崎が呟くのを遠くに聞いたのだ。ただそれがぼんやりとしていたのは竜崎の 声が例えば濁っていただとか、そんな理由ではなくて単に月自身が酷い疲労感に苛まれて いたからに他ならなかった。竜崎はそんな月を一瞥すると、ほんの少しだけ驚きのような 表情を見せて、そして珍しく率直な愉悦を滲ませ月へ手を伸ばした。

「月くんどうしたんですか、疲れてるみたいです」
「僕は疲れてるみたいかい竜崎」
「ええ」

月は首肯するでもなく、軽く肩を竦めると体を沈めていた椅子からゆっくりと立ち上がっ た。

「君と一緒にいるからかな」
「そうですか」

悪びれなく笑う月に、竜崎も特に含蓄無く頷き返す。彼の軽口に乗せられる毒は、いわば 自分に対する許容もしくは特権を意味するのだから腹をたてる理由など何処にもない、と 竜崎は考える。月は立ち上がった身を持て余して、そっと竜崎を見やった。虚勢を張ると いうより、ただ少しばかり馬鹿馬鹿しい己の感傷に、竜崎を巻き込んでやりたかっただけ だ。銀の鎖はちゃりり、と軽い音で手首を鳴らす。擦れて出来た瘡蓋は醜いと月は思っ た。

「僕はもう疲れてしまったよ」

ぽつ、と落とされた声は先程までのような綾を含むことを放棄した酷く扁平なものだった。

「僕は正義を信じていたよ。僕は僕を信じていたよ。」
「知っていますよ月くん、君は酷く君自身に忠実です」

立ち上がった月に手を伸べて、竜崎は頷いた。月は黙って竜崎を見返すと、どうしようもない気分になって 差し出された”右手”をじいっと睨み付けた。一瞬間、其処に乗せられた理解若しくは親愛に 擲つものを探すような素振りをしたが、結局月は立ち尽くしたままで其の手を取ろうとはしなかった。

月はふと、このぴったりと閉ざされたビルを思い、正義という名できちりと統制の取れた竜崎の支配を考え直した。 魅惑的な無菌室に、だけれども、ただひとつどす黒い色で影を落とす左手首の其の傷だけが異質だった。

爪先でその傷をがりがりと引き裂いて、しまえばいいのかもしれないと思いもしたが、そんな愚行をわざわざ犯すような 短慮は月にはなかった。竜崎は物欲しげに自分の手首を見やる月を、手を伸ばしたその体勢のまま 足先から頭までゆっくりと目で追った。

「僕は君を信じていたよ。僕は正義を信じていたんだ」

嘆く口調は愛惜に満ち、哀れっぽく、酷く甘えたものだった。其れは投擲という全てからの逃走を悦ぶ、全くもって 酷い無責任の様に竜崎には感じられたので、月に向かって少しばかり声を荒げて咎めだてた。

「私が正義だから、信じていたと?」
「君が正義だと信じていたからこそ君を信じたんだ」
「今もですか」
「今は違うんだ、それが」

月が幼い動作で腕を振るのを竜崎はただ冷淡に見詰めた。月は竜崎が不機嫌そうに黙り込むので、一層にどうしようもない 気分になって、ちゃりちゃりと鳴る銀の手錠を腕に絡めたり指先で軽く引いたりしながら、途切れ途切れに言葉を零していった。

「僕は僕を信じていたんだ。正義の存在を信じていた。僕は自分のルールを持っていたし、それを破る気なんかなかった」

竜崎がみじろぎしたのを感じて、月は可哀相なものを見る目で彼を見た。こんな些細なことでも 自分の中にあるであろう彼の犯罪者を見出さなければいけない彼の悲惨なこころに、ああなんて可哀相なのだと思った。

手錠で繋がれた彼は、このビルでの支配者だった。その権威を示すのが、しかしこの罪人に繋がれる手錠であった。 この”手”はひどく上手いものだと、月は思った。もしも自分が竜崎の望むようにキラであったなら この絶対距離から逃れる術はないのだった。

「月くん」

竜崎は月が自分を哀れむのを見て、焼け付くような怒りを覚えた。反射的に引いた鎖が月の身体を引き倒して地面へと 叩き付けた。少しばかりの決まり悪さと溜飲の下がった幼稚な感情に、竜崎はそろそろと叩きつけられた月の側に しゃがみ込んだ。

「すいません月くん立てますか」

竜崎は顔を上げようとしない月を無視して、肩に手を掛けてぐいと月の身体を座らせた。 向き直った顔にとめどなく涙が流れてるのを見て、竜崎は心底驚いて思わず支えていた掌を離した。 しかしぺたりと座り込んだ体勢のまま月は、もう倒れはしなかった。

「なのにもう今は、無理なんだよ竜崎。僕はうまくいったと思ったし、実際ひどくうまくいってたんだよ。」

ぐずぐずと揺れる声で月が言う言葉がどうやら先程の続きなのだと気付いて竜崎はまた、そろそろと彼の肩に手を伸ばす。 いつものような座り方で、幼い座り方をした月の肩に正面から手を掛けたものだから、何だか少し間の抜けた体勢になったが そんなことを気にする人間はこの場に誰一人いないのだった。

「君がすきなんだ」

ざっくりと言い放たれた言葉には、しかしひとかけらの恋情や熱情も籠もっていなかった。 どこか書かれた文章を読み上げる空虚さで月はすきなんだ、ともう一度だけ繰り返す。 竜崎は、月の肩に掛けた手を動かした方がいいものかと躊躇った後結局はそのままじっと黙り込んだ。

「正義が君にあろうとなかろうと、僕が正しくて君が其れを踏みにじっても、僕のルールなんてものを めちゃくちゃにしてしまったとしても。正義なんてどうでもいいと思うくらい君がすきなんだ、今はもう」

月は身体を震わせて嗚咽した。全身をねじ切るような悲しみに月は身を任せて泣いた。

「僕はもう疲れてしまったんだ竜崎。僕自身がどうなろうと知ったことじゃないんだ。僕はもう、」

月は矛盾する記憶を竜崎に説明しようがないことに、疑われることよりも否定することに疲れてしまったことに、 何よりその意味を見出せなくなったことに泣いた。月が支配していた月自身を、彼はもう見出せないでいた。 竜崎の支配するこの場所は絶対的なもので、誇示された権威は自分を打ちのめすばかりなのだった。 手錠がちりちりと鳴るたびに、磨り減りそして補われていくものは間違いなく月を損なった。

月の嗚咽を目の当たりにした竜崎は、心を動かされてひどく動揺していた。 月が気を取り直す時間を与えようと、顔をその端正な泣き顔から逸らしてじっと待っていた。 先程月がそうしていたように、お互いの間を繋ぐ鎖に視線を落としていた。 そして今確かに月が哀しんでいるのを、竜崎は酷く緩やかな追悼で受け入れたのだった。






白月って怖い。
蝿の王。色々無理があった。オマージュ…てかこれでは単に出来損ないorz
兎に角謝罪。