傷ついた目であの人は、あの人のお兄さんを見詰めている。お兄さん――ジャンさん、は一度だけ小さく咳き込んでから無言で立ち去った。 そしてわたし、は床に落ちたアマーティのケースの、外れかけた蝶番をぼんやりと見ていた。


わたしの決意を誰かが嗤う



「ジョゼさん」

呼びかければジョゼさんは一瞬、酷く暗い顔をしてからこちらを振り返る。きっと今、この人はじぶんのことを忘れていたのかもしれない、忘れたかったのかもしれない。とても優しい人、だから。 でも私はただジョゼさんにこちらを振り向いて欲しくて、もう一度だけ名を呼んだ。

「ジョゼさん、大丈夫ですか」
「ああ…すまなかったね、ヘンリエッタ。驚かせただろう?」
「いいえ、ジョゼさんが大丈夫ならそれでいいんです」
「……うん」

うっすらと苦笑を浮かべたジョゼさんは、もう部屋に戻って休んでおいで、と呟いた。正直そんなに遅い時間でもないし、もう少し一緒に居たかったけれど、少しばかり青褪めた顔が必死で私の前で取り乱さないようにと繕っていて、私は肯、と頷くしかなかった。





エルザが死んだ。
――わたしの、せいでもある。



きらきらと輝く万華鏡を覗き込むのは、テレスコープで星空を見上げるのと少し似ている。可愛い洋服や細々としたもの、いい匂いのする香水。お仕事をすれば破けてしまったり硝煙の匂いで掻き消えてしまうことも会ったけれど、それでもそれら全ては私の宝物だ。

エルザは何にもない一人部屋で、それでもピントのぼやけた目元の写真一枚だけを大切にしてた。

公社のお仕事で、失敗は許されない。其れは自分だけではなく兄妹の担当官までを危険に曝す。

ジョゼさんに愛されている私を見て、お仕事に失敗したエルザ。



そうしてエルザは死んだ。
――でもそれはきっとわたしのせいでは、ないけれど。






シチリアから帰ってくるなり、ジョゼさんはジャンさんを訪ねた。真相を話したのかもしれないし、話されたのかもしれない。どっちにしろ酷く、ジョゼさんは激していた。 たまたま部屋の外を通りかかった私にも気付かず、(といってもそんな偶然、ではない。単に焼きあがった写真を持ってジョゼさんの部屋に行こうとしたら、途中人気の無い踊り場にジョゼさんとジャンさんがいたのだ。)ジョゼさんはジャンさんに詰め寄ると、何故、と聞いた。

何が、とジャンさんは聞いたけれど別に何かを尋ねたわけではなさそうだった。作戦の説明をするときとおんなじ顔でジャンさんは静かにジョゼさんを見詰めていた。

「お前はしらなくていいことだ」
「僕は知らなければいけなかったんだ」
「…もういいだろう、結果的には同じことだ」
「馬鹿言え!……言わせたんだ、ヘンリエッタに」

囁かれた名前にどきりと鼓動が跳ねる。普段呼ばれるものより低い調子で押し出された名に、頬が火照った。

「…ジョゼ、大概にしろ。ラウーロの件についてはもう終わったことだ。」
「……でも、」
「ならばお前が悪いとでも、俺が言ってやればお前は満足するのか?」
「……」

逡巡した挙句黙り込んだジョゼさんを見て、私は嗚呼、と小さな声で呟いていた。

ジョゼさんは優しい。
私に、ジャンさんに、ジョゼさん自身にも。

だからワザと落としたアマーティのケースの音に、二人が振り向く瞬間、私は小さく嗤った。





見せられなかった写真を手にふらふらと部屋に戻りながら、ぼんやりとラウーロさんがエルザのことをどんな風に見ていたのか思い出そうとした。優しくはなかったけど、酷い人でもなかった。褒めてはくれなかったけど、失望したりもしなかった。


エルザが死んだのはわたしのせいでもあるけど、エルザを殺したのはわたしではないし、第一ラウーロさんを殺したのはエルザなのだから元々わたしのせいでもないのだろう。

エルザはわたしを見て、ジョゼさんを見て、そしてラウーロさんを見た。

優しく撫でる手と、気遣うように声にされた名前と、きらきらと輝く色々なものに囲まれたわたしを、羨まず、妬まず、ただ純粋に見た。

だから撃ったのだろう、と分かっている。
エルザはジョゼさんがした行為に羨望なんて覚えない。でもだからこそそんなことをされたことがない自分を嘆いた。 きっと最後も背中を見て、話したのだろう。



ジョゼさんは優しい。
あの人はわたしを大切に大切にしてくれる。





――嗚呼なんて馬鹿なエルザ。



たとえ共に死しても、あの人はわたしを本当に愛したりはしないだろう。
見上げる星が綺麗でも、ただそれだけであるように、結局はそれだけのことなのに。



エルザは死んだ。
エルザが死んだ。

わたしの在り得たかもしれないもうひとつの愛は死んだ。

ジャンさんに詰られて初めて私のことを思い出したあのひとはきっと、歪んだ蝶番を見詰める私よりも冷静にわたしの屍体を見るのに。



馬鹿なエルザ。



「……ジョゼさんは、何でもしっているもの」



わたしはそれでも、目を閉じて耳を塞いで待っている。
あの人が優しい嘘ばかりでわたしを埋め尽くしてくれる、日を。







嗤ったのはエッタ。エルザが死んでエッタは正直嬉しかったと思う。要はエルザが自分達の仲睦まじさとの落差に 打ちのめされたんだし。でもその実ジョゼさんは結構表面的だし、エルザの想い方はある意味エッタの理想型ぽかったので 複雑だろう。