Anti-Ares



つい先ほどまで新緑が輝き眩しいばかりであった空には、重苦しい雲が垂れ込め、遠く雷鳴が響く。 今にも降り出しかねない空模様に、往来の人々は慌てて店先に駆け込んでいた。

磨き上げられた窓から覗くそんな町の姿に小さく溜息を吐く。今日は生憎傘を持ってきてはいない。 ホテルの傘を借りるのは何処となく面倒だが、この調子では自分が帰る頃にはきっと本降りになって いるであろう。濡れそぼる、その想像は決して愉快なものではなかった。

「――…降りそうですね、雨」

薄暗くなった窓際に比べ、煌々と明るい室内からかけられた言葉にゆっくりと振り向く。 大きな声でもないのに凛と響く声は、その男の特徴だった。 手元から目を上げることもせずに、半分自分に背を向けたままの男に小さく笑みを含ま せ返答を投げかける。

「――あぁ竜崎、春雷みたいだよ」

頷いた、ような気もしたが竜崎は別段何も言葉を継ごうとはしなかった。自分から話掛けておいて とんだ態度だとも今更に思うが、気紛れにも似たこの様な行動は珍しいものではない。 寧ろこの男にしてはよく反応を返すほうだと思う。―…この自分の、言葉には。

「あれ…雨、もう降り出した?」

奥の部屋の扉が開いて、松田がトレーを両手に持って出てくる。窓際に立つ自分に向かって かけられただろう言葉に軽く首を振って否定を示してやれば、そう、と呟く様に声を紡ぎながら 手に持った淹れたての紅茶のカップをこちらに差し出し、へらりと相好を崩した。 あからさまな好意に思わず苦笑を浮かべながら、丁寧にそのカップを受け取る。 窓際に据えられたソファに身を沈め、カップをそっと口に運べばふくよかな薔薇の香が ふわりと鼻孔を掠めた。

「いい香りですね、」
「うん。高い茶葉みたい、っていっても部屋に元々あったんだけどね」

冗談めかして肩を竦めた松田は竜崎の方へもそっとカップを差し出した。 案の定、身じろぎすらせずに資料を見つめたままの男はそのカップを一瞥すらしない。 松田も慣れたようにそのカップの前にシュガーポットを置いて、そのままトレーを下げた。
漂う香りはゆったりと散らばっていく。それに乗せるようにゆっくりと息を吐けば 柔らかいソファに沈んだ体が弛緩したのが分かった。思えば最近余り寝ていない。 眠気に先立つ倦怠感に小さく眉を顰めて、熱い紅茶を無理やり喉に流し込んだ。
噎せ返る香と心地よく焼かれたような臓腑に、一瞬で自分を取り戻す。こんな所で気を抜くわけにはいかない。 そう、ここはあの男の支配する正に城塞なのだから。

仮の捜査本部として据えられたこのインペリアルスイート。踏み入るものを選定するその部屋には 今は自分を含め三人の人間がいるだけだ(多い時でもあと二人しか増えはしない) 城塞というには些か城郭が薄い気もするが、不落を誇る理由は偏にこの不健康な男にある。 先程からなにやら一点を見つめるようにして熱心に紙束を捲っているが、それでもこちらへ向かって 飛ばされている意識が途切れたことは無かった。張り巡らせるように自分へ向かった網は 最近ではもう随分と身に親しい物となっている。 視線や恣意、あからさまな趣向には慣れたものではあるのだが、それにしても全く以て過剰な 行動ではある。苛立ちと、感嘆の混じるような諦観を持て余して再度小さく溜息を吐いた。

室内は格調高い家具を敷き詰めてありながら、当然のようにだだっ広い。 積み上げられた膨大な資料や映像器具をいれても、この空間に占める人数 には到底相応しからぬスペースである。其れ故か、豪奢な割にどこか閑散としたその部屋には、 時折雲の合間に光りだした白い閃きが酷く鮮明に広がった。
何気なく、肘掛に置いていた腕を持ち上げて窓の方を仰ぐ。 高所に据えられ、遮る物の無い景観には今はただ重たい雷雲だけが立ち込めている。 それでも晴れているときにはカーテンが下ろされていることの多い広い窓は、寧ろ どこか澄んだ明るさを誇った。


どこか甘い華の香り、
閃く白、
光を弾く硝子

そんな計算された上での舞台設定に満足したのだろう。
男がゆっくりと、言葉を乗せるその動作は酷く自然に執り行われた。



「春雷、ですか――高みにいると雷に打たれやすいというのは一種の象徴でしょうね」



「はい?どういう意味ですかそれ」


戸惑うような視線を向ける松田の後で、今度は寧ろ吸う為に小さく息を吐き捨てる。 繰り返し行われる言葉の遊戯は、それこそそれ自体は厭うものではない。ある程度の明け透けな無礼を 差し引けば、寧ろ遊戯としてはこの男でなくては出来ない高度なものである。 自分はその洗練された知性を好ましく思ったし、得難いものであるのも確かだ。
いつもならそれに延々と付き合ってやるのも悪くは無いが(飽く迄遊戯の範囲であるのならば、であるが) 今はどちらかというと面倒さが先立った。
倦怠感の漂う体は思考を鈍らせたし、立ち込める曇天は気分を高揚させる種のものではない。 そもそもその遊戯の為にこの場に居るといっても過言ではないのだから、自分のこの感情はなんとも 本末転倒だったがどうしようもない。

それに切り出したその一言で、男がどういう話をしたがっているのか自分には分かってしまった。 陰険なメタファーばかりを好むこの男にしては今日の話は些か直球過ぎ、そしてなんとも型通りだった。 出来の悪い作品に不快感を覚える要領で男を軽く睨み付けてやれば、すっと手元から目線を上げた男は 全てを見透かした顔でうっすらと口の端を吊り上げた。

「――雷、にも限りませんが、古来より自然現象の表すものは“権威”に他なりません。不可避かつ 不可解なそれは、人間における原始的な恐怖に直結するものです。」

どうやらこっちの胸中を知った上で、それでもこの話を進める気らしい。 松田を巻き込むようにして続けられる論弁は滔々と流れ出た。

「人は無知を恐れます。知らないことがイクォール恐怖、もしくは排斥の対象となり、それは大体において 他者に対する行動原理に反映されます。自然現象にしても、古来にはそれは現象などではなく神秘以外の 何物でもなかったのですから当然同じことが言えたでしょう。」

「は…はぁ……それと高いところにいると打たれやすいっていうのが、どう関係あるんですか? 高い所に…ってあれですよね?ほら雷の時は高い木の傍には近寄っちゃいけないとか・・」

いつの間にか降り出した雨は、もう既にかなりの勢いを持って地に叩き付けられていた。 厚い窓では微かな雨音を聞くこともできなかったが、窓に伝う幾筋もの流れは何故か女の泣き顔を髣髴とさせる。 伝わるはずも無い湿った空気に漂う遅滞が浮き彫りになり、仕方なく口を開いた。

「…古来の自然崇拝とはそういうところから来たんですよ松田さん」
「そうなの月くん?」

「そんな風に不可侵に見える自然を神に祀り上げ、そしてそれに伴う災害を神の怒りだとか意思だとか という解釈をつけて”論理的“に受け入れようとしたのが始まりなんですよ」

丁寧に語りかけるように見せかけて、半ば投げ出すように言葉を押し出す。 意趣返しにしては自分も大概直球に過ぎるが、投げられたものの程度が程度なのだから これくらいで妥協しようと文句をつけられる筋合いは無い。 ただ台本を読みあげる無感動さで態とらしく男に視線を這わせれば、男はやはり嗤う形をとったまま 口元に当てた爪を小さく齧ってみせた。

「月くんの言う通り・・本来神とは人間に恵みを齎す者ではないのです。特に一神教ではなく日本のような自然崇拝の 多神教では顕著でしょう。神々に恵みを願うのではなく、災いを、怒りを静めようと祀る。 神域と称して“神”を隔離しているのですよ」

「ああ確かに言われてみればそんな感じですね」

素直に感動しているらしい松田の声を何処か遠くに聞きながら、頬杖を付いていた掌でそっと 口元を覆う。嘲弄と憤りを交えた笑みを曝すには、彼は余りに単純過ぎた。 てんで練られていないその筋書きは早々に結論を迎えようとしている。 馬鹿馬鹿しくもなって、冷めた視線を窓の外に飛ばした。


「そんな自分本位な神の意思としての自然現象に、高み―― つまり神の傍に行こうとするものが打たれるというのはなんとも皮肉な話ではありませんか」


大粒の其れが降り注ぐ勢いは益々盛んで、塗りつぶしたかの様な稚拙な暗雲は地に迫る重さを見せ付けた。 真剣味と、そして何より誠意に欠ける男の台詞は、思い描いていた其れと寸分違いはしない。
まったく持って白々しい。付き合わせる傲慢さは不遜と呼ぶにも生温かった。 打ち切る以前に終わってしまった言い草に応え、答えを投げかけてやるのは自分に振られた 役柄だ。貧乏籤をひかされたのは何も偶然ではないだろう。 この男がそういった種の嗜虐心を抱いているのは知っていたし、(そしてそれを発揮する相手を身勝手に選別している事も知っていた) またそれは男のような生業では寧ろ当たり前のことなのかもしれなかった。 回り込んで、下らぬ茶番に付き合わせる性質の悪さ。
――全く以て救い難い――


「避けがたいものは神の意思、恐れるものは神…神なんてものを作り出した“人間”こそ が神秘そのものです」


静かにソファから身を起こして窓際に立つ。 男のパートが終わってしまった(少なくとも自分はそう考える)のだから、今度こそ 馬鹿げた芝居の壇上に上げられるのは自分の番だ。
鏡のように反転した室内に向いて、かちあう視線にガラス越しにうっすら笑いかけてやる。 共犯者というには親しみのようなものが決定的に不足し、恨み言をぶつけるにしては ぞんざいな態度が相応しからぬ。結局戯れの範囲を出ないそれに、乗せられたと考えるのは そう愉快なことではない。さっさと終わらせてしまえばいい、と短絡な思考に抗わず芝居がかった 動作、くるりと音を立てんばかりの勢いで振り返った。


「………竜崎は、つまりはこう言いたいんだろう?“神を気取ったキラ”が与えるものも自分本位な 意思――」

読み上げられる決まりきった台詞
示された模範解答
反転した光景を背負い

―――そうして鮮やかに


「死という避けがたい“神の怒り”の真似事なのだと」


雲間を閃いた、一筋の輝き
劈かんばかりのその響き、聞こえるはずの無いその音色が


確かにこの耳朶を満たした。



「…っわ、」

まともに落ちたであろう雷の閃光に、感嘆にも似た声が松田から漏れる。 意味も無く強張らせた肩をそろそろと下ろすその仕草を見やって、 窓の外に充ちた残響が収まるのを静かに待った。


「―――……違うかい?竜崎」


舞台俳優として非の打ち所の無い完璧な笑顔を浮かべ、男の視線を真っ向から受け止める。 急激に水位に似たものを増したその室内に、松田がぎょっとした表情を浮かべた。膚を刺す刺激に 溢れるような愉悦を混ぜ込んで散らす。真円を描く美しさで広がる伝播に乗せ、男は 甘く睦言を紡ぐ様に囁きを零した。


「・・・えぇ・・そうです・・。」

にぃ、と口の端を吊り上げ男は嗤う。



「キラ」




天に向かって間取りを取られたその窓から、差し込んだ光が一瞬で室内を清廉な純白に 染め上げる。浮かび上がるその男の笑みが落とす影が、線を縁取るまでにくっきりと刻まれた。


何処までもただ愛おしむが如き、笑み
慈愛とすら呼べるはずの其れはだが、男の瞳の色に掻き消されて


神を断罪する罪の

甘さに溺れ



絶句した松田が慌てた様に男の名を呼ぶ。その横顔をまたもや白い閃光が撫でた。 いっそ清らかなまでのひかり。凄烈な、その貫く一筋の閃光は確かに何処か蠱惑的に地に突き刺さり――

「……かみなりが、」

上げた声が愉悦を含んでいるのが自分でもはっきりと分かる。いっそ笑い声でも立ててやろうかと 思いながら、出来うる限りの甘さでそっと囁いた。


「此処に落ちてきそうだよ」

、L



…と音には乗せない名の形に口を動かしてまた小さく笑う。 茶番に付き合った、下らないその内容の割に浮かべられた笑みは酷く自分の興をそそった。 その意趣返しにまた綺麗に笑いかけてやって、くるりと体を反転させる。豪奢な絨毯に足を沈めつつ一歩を踏み出せば、 閃かせた笑みをすっかり収めて男は小さく目を眇めた。

「―――月くん、お帰りになるのですか?」
「そんなとこ。もうこんな時間だしね」

態とらしい台詞を乗せて、そのまま歩みを進める。すっかり一連の発言を無視したような 僕と男の態度に松田は動揺しているようだったが、今はそんなことはどうでもよかった。

「傘を、持ってってください。」

濡れます、とどこか巫戯気たことを淡々と言い放つ。少しばかりの煩わしさ、そして何より 断ち切った芝居の趣向にどこか水面を揺らす雨音が遠く響く。 男の深淵を覗き込むが如き瞳の黒が、ぎょろりと自分に向き直る(否、視線を外された事は無かったのだから 籠めた力を強めたといったほうが正しいのだ)。

「…いらないよ、じゃあ僕は帰るから」

最早振り捨てる様にしてさっさと豪奢な扉を押し開く。すると響く声が追いすがるように 背を叩いた。



「………避雷針など欲しくは無いのですよ、私は。」



押し開いたそれに手をかけたままぴたりと足を止める。

「美しい、ひかりをわたしは心地好く想います」

それはまるで、まさに、焦がれるその感情の様に


「月くん」


そうして常の様に単調に呼ばれる名を引くようにして、その扉を閉じた。




ホテルのエントランスを抜けて、そのまま外へ飛び出せば降り注ぐ勢いは 忽ち体を重く濡らした。雨粒の引く無数の線で煙る視界には、街灯に浮かび上がる新緑が 無駄に冴え冴えと映えていた。

「月、寒くないのか」

頭上を飛んでいた死神が、気遣うでもなく問いを乗せる。 見上げるようにしてやれば、いっそ囃し立てるようにずぶ濡れだ、といって笑った。

「寒く、なんか」

寧ろ暑い、
滾る様なその激情のせいで

ひかりを、美しいあの白い



「・・L」

あの男にだけ
あの男にだけは囚われてしまう気はないのに

またもぴかりと頭上で白い光が広がる。
それでも僕は何かに囚われようとしているのだろうか



「・・死んでしまえばいい」



それはそう神の怒りにも似て。




凄絶な光たるキラ
清廉な光たるL

ひかりが正義たりうるかなど
知りえようもないのだが


それでも頂に輝く光を、人は崇めるだろう