歓びの


澄み渡る夜気の中を泳ぐようにして一歩一歩足を進める。かつりかつりと石廊に響く規則的な音が、痺れるような冷気に躊躇する己が足を半ば強制的に突き動かしていた。時刻は深夜、晴れ渡った夜空には、黒耀に散らされた遙か光年の瞬き。ここまで態とらしい演出が整っているのならば、それ相応の役柄を気取ってみるのも悪くはない、とひとりごちた。

雪に伴うイメェジはいつだって単調だ。冬につきまとうフレーズはリフレインを止めることがない。一つの遊戯のルールではある。それはあくまでこの支配された場がひとつの精緻な規則に則っていると仮定するならば、の話ではあるのだが。

喚起される映像、感覚、感情。滴り落ちるものにうすらと笑う。
かなしみ、に。痛みに自分は。


目的の扉を視界にいれて少し歩幅を狭める。足音を消すべきかなんて姑息な思考を回しながら、そのままゆっくりと前に立った。薄暗い廊下はいい加減冷え切っていたので、別段躊躇うこともなくその扉に手をのべる。しかしその手が押し開ける蛮行を犯す直前、ふと差し込む夜の日にくだらない独り言を透かされた。どうせルールの範囲でしか行えない遊戯ならば、とことん巫戯気てしまった者にこそコングラッチェが捧げられるのだろう。そして勝者には美しい姫君から祝福を?益々馬鹿馬鹿しくなっていく言葉遊びに兎に角一度区切りをつけて、さっと身なりを整える。一つ礼、姿勢を綺麗に保ったまま身を起こしてから囁くように言葉を押し出した。

「私めは招かれなければ入ることが出来ないのです、愛しの君」

哀れな種族の、血に刻まれた習性なのだという。

「ああでも貴方は実は優しい人なので」

しかしその掟には初めて訪れる部屋には、という但し書きがつくのでした、という可愛らしい段取りで今度こそさっさと扉を押し開く。

格子の填められた窓からは、やはり静かというには盛大に月の光が降り注いでいる。その脇に据えられた寝台には愛しの君と呼び慣わすには些か強靱すぎる、眠り姫がひとり。

「……神田…」

後ろ手に扉を閉じてそのまま歩み寄る。相変わらずきれいなひとだとぼんやりと考える傍ら、硬質の肌に弾かれる光は断然夜のほうが映えること、を口に出すのが何の罪にあたるのかなど、どうでもいい言葉遊びは未だに続けられていた。

全くもって救い難い。どうせ答えなんてとっくに知っている、そんな問いかけに囲まれて時を送るのだ。こんなスタンスを否定こそすれ、賛美しよう筈もないひとは目の前でただ動かぬ彫像めいた姿を晒す。

身勝手な苛立ちに無遠慮に手をのばす。
足音をたてて歩いてきたのも、唾棄すべき下らない儀式をわざわざ執り行ったのだって。


冬の喚起するイメェジ。
動かぬ、静謐な、美しい、高潔な。
白。

「……かんだ」
「触るな」

ぱっちりと見開かれた瞳は矢張り常のような鋭さを帯びてこの身を貫く。安堵にも似た感傷にそのまま差し出した手を落とそうとすれば、思いの外高い音を立てて払われた。


「…触るなと、言っただろう」
「……狸寝入りをしていた、神田にいわれたくありません」
「……お前」

呆れ返った声に、いっそ綺麗に微笑み返す。 子供じみた駄々をこねている、ことを隠す気はなかったし、隠せないような気もした。それは明晰なる彼相手だからという理由ではなく、そう、自分に在る稚気が結びつく先が紛うことなく喪うことへの偏執的な欲望だからで。身勝手な苛立ち。ただ今夜、自分には余裕が無い。うつくしい夜、ひとりで弄ぶには些か悪趣味に過ぎてきた言葉遊び。純粋な感傷みたいなものは、とっくに解析され分解されつくしてしまったというのに。形骸化した映像、感覚、感情。滴り落ちるものにうすらと笑う。かなしみ、に。痛みに自分は。

酔っているのだから。

「ねえ神田……この話、知ってますか?こっちの童話ですけど。」

半身を起こした神田に背を向けるようにして勝手に寝台に座り込む。

「帰り道を探しさまよう黒い森の中…縁となるのは千切ったパンの欠片だけ」
「……」
「…そんな、お話です」

黒耀の瞳。デジャヴに揺らされる脆弱な思考に、下らない夢を見た。幼い兄弟が死に歩む道で落としたパン屑。小鳥に浚われるほどの僅かなそれを、後ろを顧みることもなくただ信じきる従順さ。
慣らされた形式に、一度収めた成功に、疑いを知らぬものに。突き落とす制裁を加えて。

「…夢見の悪さに泣きじゃくる程餓鬼だったとは、流石に予想外だ」
「いいんですよ別に」

冬に。決まりきったルールに則った傷に。夢見に怯えて訪ねた先まで、其処まで含めてひとつの儀式。よすがとなるのはただ落としたパン屑だけなのだとしても。後ろを振り向いて羽ばたく小鳥の軌跡に喰い散らかされた希望が舞った時、兄弟はなにを思ったのだろうか。

「僕はさみしいんです。」

酔っている、痛みに。
可哀想な、哀れで惨めったらしい様を。捨てられて家に戻る術さえ持たない幼子の様な危うさを、どのような形であれ見て見ぬ振りを出来ない人だと知っている。それが表に出ようと出まいとじぶんには分からないのだけれども。

「……真っ暗な、道…ではなかったんですけどね」

物語みたいに巧くはいかない。純白を思わせる広がりは、容易く喪失の感触を呼び覚ます

「うしろを、振り向いたら其処にはなにもかもがあって」

それでも圧倒的に欠落しているのは、千切った筈の欠片だけで。

「めがさめたのに、部屋に」

きっかけは些細なこと。
相も変わらず下らない夢を見て。重たい体を起こしてみても、薄暗いだけの室には欠落したものすら見えなかった。ぼんやりと流れもしない涙を惜しんでいたら、窓の外に見えた光が。
まるで雪みたいな白さであったから。

「…ひとりでいるとわらってしまうから」

そっと横を向いて伸ばした手は、計算されつくした美を弾く顔の真横で止まる。

「”小さき命は眠りによって幕を閉じる、”って言うでしょう?…ね神田…きみは、喪うときになにを残してくれますか」

堅く閉ざされた唇の上に指をのべて、触れない距離のまま翳す。ふ、とあえやかな溜め息が指を濡らして思わずびくりと震えた。

「noli me tangere(私に触れるな)……と、言ってやっただろう」

反射的にひいた手を逆に掴まれて、引きずり込まれる。バランスを崩して倒れた体躯は、柔らかい寝台に音もなく包み込まれた。唐突に訪れた静謐に、少し混乱しながら頭をあげようとするが、上がり端に有無を言わさずその場に押しつけられてしまったので、仕方なくそのままの姿勢で呟いた。

「…聖なる、すくいぬし?」
「…小さき命、か…それならばむしろ”眠りを殺してお前は一体何を手に入れた?”の方だろう」


見上げた口の端は侮蔑するように象られてはいたが、冷たい色は無かった。

「…同情、してくれると?」
「同病相哀れむというやつかもしれないぞ?」
「酷い冗談です」
「お互い様だ」

頬を擦り付けるように寝台の温もりを掻き回す。かたく、痛みしか感じないような感触に思わず哂えば、不機嫌な声で罵られた。

noli me tangere、両の手の傷を曝し、責めたて(否、救い上げ)た、そのおとこに、 触れようとした娼婦の感情を確かに自分は知っている


切り研ぐ刃を握り締めるような
赤字で描かれた免罪符に縋る様な

酷い偽善を平気でおかしたその

季節は冬だった
自分は少しだけ人より多くを知っていた
つまりは無駄に気遣って貰える権利を奪取していた

弱さを売った
彼はそれでも救いようが無くただ一人のひとだった。

神などではない
握り締めた掌で何より知っているはずの事実を今更に知る。


「…もういいだろう、退け」

凛と響く声に、そのたおやかな腕が振りぬかれる前にさっと体を起こす。ベッドの縁に腰掛けなおして、シーツに包まる彼を見やれば少し不機嫌そうな顔で窓の外を目線で示してきた。

「ひとりで何とかしろ。もう寝る」
「期限付きなんですか、折角サクラメントの一つでも施して貰おうと思いましたのに」
「ただ舞い戻ってきただけでその場に居座ったら有難味が薄れるだろうが。」

とうとう本気で怒ってきたらしい気配を感じて、とりあえず口を噤む。シーツに包まり直った彼は今度こそ一個の彫像めいている。真っ白い掛布に太く細く皺が寄るのを見つめていれば、ふと過った言葉が途轍もない不快感を齎していった。


雪に伴うイメェジ
落とされたよすがとしてのパン屑
三日三晩の後にあらわれた救いぬし

眠りを殺して手に入れたもの

「…痛い」
「……痛いですか?」
「…殺すぞ」

覆い被さる体勢で、力の限り捩じ上げた両の手は確かに見る見るうちに鬱血してきている。さぞ痛いだろうとどこか遠く思いながら、それでも少しも抗う様子を見せない体躯に対する苛立ちのほうが勝った。

「…痛いでしょう?痛かったでしょう?何故怒らないんです、責めないんです、突き落とさないんですか。万能足りえない神の代わりに何故、何故あなたが」

朱に染まった掌の中心に、つき立てる勢いで爪を刺しこむ。生々しい感触に、ぞくりと背筋が震えた。

痛みに酔うスタンスを、取り続けるには些か疲れてしまったのだ。

もうきっと
誰をも喪うことに自分は耐えられない

ぎちりと痛々しい音を立てて突き破った膚から、血の赤が珠のように膨れ上がる。それを指の腹で擦り付けてやれば、それこそ態とらしい演出は忽ちに整った。

「やめてください、そんな、ぼくは救って欲しかったわけなんかじゃないんだ」
「…」
「だから」

触ることで神聖が貶められるのならばそれでいい
触ることで暴かれるものを抱いて隠しているなら

「僕はあなたを喪った後になにをも得られない」

真白い聖骸布に包まれた体をそのままきつく抱きしめる。
貴方がいなくなったら死ぬんじゃないかなんて絶対にありえない事を考えている。

そうして今日も一日整えられた儀式がようやく遂行されたのだと、気付いた。






清き原罪
存在という救済

残酷な二律背反に、それでも僕は



水母さまに捧ぐ