冷め切ったコーヒーを温めて、初めからをしませんか?




「お前馬鹿だろ?」

口を開こうとして、唇の端を動かせば忽ち引き攣った痛みが走った。のろのろと腕をついて身体を持ち上げ、所々が鈍く痺れる感覚にケンイチは歯を食いしばって耐えた。 竜也はデザインチェアの端に腰掛けて、縁に手をつきぶらぶらと足を投げ出していた。ぼんやりとフローリングの上でのたうつケンイチの姿を見て、ゆっくりとカウンターに置かれた細長いタンブラーに手を伸ばす。指先で少し傾ければ、からりと氷の擦れ合う音が響いた。

「おい」

至極自然な動きで、掴んだ其れを手首を捻って落とす。カウンターの端から滑り出たガラスは、緩やかな弧を描いて竜也の指先が弾いた方向へと舞った。

「っつ、!」

がちゃん、と鈍い音が室内に響き渡る。ケンイチの額にもろにぶつかったタンブラーは、その衝撃で冷水を撒き散らした。
水飛沫と、何より突然の飛来物に目を瞑ったケンイチはだが、床についた手に熱が走ったので反射的に手を引いた。ギリギリで支えていた身体は少し傾いたが、再び目を開けてみた光景に必死に姿勢を保つ。ぶつかって床に落ちたタンブラーは当然のように割れていた。青みがかかった繊細なつくりをしていたそれは、幾つかの無惨な破片となってフローリングの上で屍骸を晒していた。

「……つめたい?」
「………、」

大して面白くもなさそうな口調で竜也は言った。訊ねた、つもりはないのかもしれないとケンイチは思う。そんなことはどうだっていいのだ、彼には。大体冷たいより先に痛いし、打ち付けたところからは恐らく血が出ていて寧ろ熱い。
つめたいのか、とまた呟いて(今度は完璧な独り言だ)竜也はカウンターにもう一つ置かれていたタンブラーに手を伸ばす。それを見たケンイチは少しばかり身構えたが、竜也はそれを口元に運んでこくりと一口飲んだ。

「……嘘つき、つめたくない」

氷が浮いた、水だ。濡れた唇を乱暴に指先で拭う竜也に、ケンイチはそっと視線を落とす。
竜也はたまに唐突に嗜虐的になった。それも極めて重度に、である。しかも大体ケンイチ自身にはその切欠となる原因が分らないことのほうが多い。後になって、竜也の漏らした一言か何かで原因を知れることもあったが、大抵は意味不明のまま、要は竜也の気が治まるのを待つしかないのである。

今日も突然一頻蹴られて、床に這い蹲る羽目になった。
頬を滴る水の雫に、軽く眉を顰める。腫れた肌に氷水は刺す様な刺激を与えた。

「………ねえ」
「、」

不意にかけられた声が酷く頼りなげで、ケンイチは思わずまじまじと竜也を見返す。


「なんでお前は俺なんか好きなの」
「…え?」
「ほんとよくわっかんないんだけど」

高い脚のデザインチェアを揺らすようにして、竜也は無造作に裸足の足を振った。足先の爪がひらひらと行き来して、場違いにもケンイチは桜貝みたいだと陳腐なことを考えた。

「俺はお前より年上だしっていうかまあそれ以前にアレだし。男だし。俺はお前のこと好きじゃないし女の子と寝る方が楽しいし。なのになんで?」

本当に疑問、と呟いて竜也は初めて笑った。心の底から侮蔑する笑みに、ケンイチは思わず反駁しようとした喉を詰まらせる。

「……お前ってさ」
「!!!!竜也さん!」

ひょい、と椅子から降りた竜也は無造作にケンイチに近づいた。散らばったままのガラスの破片の上を、何の躊躇いもなく竜也は裸足で踏み出す。ざくざくと面白いほど容易く膚は裂けて、磨かれたフローリングにたちまち赤が滴った。

「な、にやってるんですか!!!」
「へーきへーき見える場所じゃあないから仕事には差し支えないし」
「そういう問題じゃないでしょう!」
「あ、ウォーキングとかも大丈夫、なんたって俺いい加減役者暦長いし。これくらいなら問題ない」
「……!あんたは、何言ってるんですか」

ケンイチはぎしぎしと悲鳴を立てる身体を、無理やり引き摺り起こした。間接の継ぎ目が酷い熱を訴えたが、構わずに立ち上がってガラスの破片の中で立ち尽くした竜也に手を伸ばす。じっと無関心な目で見詰めてくる竜也を、かかえ込む要領で担ぎ上げる。流石に少し驚いたように身じろぎしたが、構わずにソファのほうへ歩いていった。

「いて、おいもっと優しく下ろせ」
「…」

ソファに竜也を下ろしてから、ケンイチは一度息を吸うと思い切り竜也の頬を殴り飛ばした。ソファに横倒しになった竜也は、とさと軽い音を立てて倒れこむ。

すぐにむくりと身を起こした竜也は、殴られた頬に指先を這わせて確かめるように撫でた。ケンイチはそんな竜也を一瞥すると、竜也の前に跪いて、ひょいと足首を掴んだ。足の裏に刺さった小さな破片を指先で摘んで、そっと抜いていく。ただ竜也の足先だけを見詰めて、ケンイチは搾り出すように唸った。


「あんたがキレようが、俺を殴ろうが、そんなことはどうだっていい。でもあんた自身をこんな風に扱うのは許せない」
「何其れどっかのドラマのセリフ?松山くんカッコイー」
「たつやさん!!」
「ならさ」


遮る声が酷く冷静に落ちる。ケンイチははっとして竜也の目を真っ直ぐに見返した。

「お前は何で俺に殴られるの?お前本当馬鹿、分ってない」
「え」

足首を掴んで、血まみれの足の裏を掌の上に乗せたままの姿勢でケンイチは動きを止めた。

「馬鹿は嫌いだ」
「…」

竜也の血で汚れた指先を、ケンイチは恐々と足の甲へ這わす。

「それでも俺は貴方が好きです」
「だからなんで」
「…好きです…」

竜也の意図がつかめずに途方に暮れたケンイチはぐったりと項垂れた。打ち身になっている全身の重みに耐えかねるように首を折った。ただそれでも掌の上に置いた傷ついた足だけは、そっと包み込むように握っていた。

「……ねえ足舐めて。痛い」

竜也は強請る様に声の調子を下げた。何の応えもなく従容と足に顔を近づけたケンイチに、竜也は酷く苦々しげに笑う。ケンイチには見えないから、その痛みを暫くじっと噛み締めたままでいた。


ぬるりとした温かさが傷を抉るように伝って、竜也はびくりと仰け反った。

嗚呼こいつは馬鹿みたいに俺を慕って、慕って、そうして報われることがないのだ。可哀相な奴だ、憐れなやつ、惨めな奴、ああなんと滑稽!と竜也は快哉を叫ぶ。

何故だかひどく哀しんでいる様子の竜也に、ケンイチは酷く焦った。ただ分るのは舌先に伝わる錆の味だけで、他には何一つだって分りはしない。そう、自分の感情さえ。



「お前は本当に馬鹿だ」

ケンイチは只管に滲む赤を舌で舐めとっている。竜也はぼんやりと、割れたグラスが室内灯を弾くのを横目で見ていた。

俺なんかに気に入られたばっかりに、お前の恋とやらは一生成就しないんだ。可哀相な奴だ、憐れなやつ、惨めな奴、ああなんと滑稽!滑稽なのは俺だ、嗚呼可哀相な俺、きっとこの鈍感な後輩は俺が何で怒っているかなんて分らない。



ケンイチに殴られた頬に、竜也はもう一度ゆっくりと指先を伸ばす。


大人しく殴られる男に、酷い絶望を感じていることを知られなければいいと思いながら。