そういえば屋敷には矢鱈とごてごてとした意匠の施された、枠付きの立派な姿見があった。 メイドなんかが自分の格好を整えようとしてくるときなんかに良く向き合ったものだ。 どうせこの屋敷の外には一歩たりとて出れはしないのだから必要ないとも言ったけれど、結局メイドたちは着せ付けるまで満足しない。 黙って着せられて後は自分で(若しくはガイあたりにやらせればいい)脱ぎ捨ててしまえばいいのだと気付いてからは 為されるがままにするのが一番だと放っておいた。(ガイはそれが彼女らの仕事だから仕方ないんですよルークお坊ちゃん、とかほざいていた)


そんなことをなんだかぼんやりと考えていたら、胸倉を掴まれている其の手に力が籠もり、反射的に喉が何処か他人事のような、か細い音で鳴った。

照りつける日差しは暴虐のようにじりじりと頭の上から焼いていく。儘ならぬ呼吸は、吸い込む空気の熱さと相まって 視界を歪ませる。一筋の汗が首を伝う感触がじわりと背筋を撫でて 、これ以上顰めようがない眉を寄せた。……しかしそうしてしまうと益々冗談みたいに、向き直る其れは姿見でしかない。 (自分には分らないけれど今多分こんな顔をしているのだ)



「………なんだその眼は、この屑が」



苦々しげに吐き捨てられた罵声が、ざくりと耳朶を引き裂く。 あの姿見はぴかぴかに磨き上げられていっそ触ったら冷たいんじゃないかと思うほどだったのに。
今こうして向き直るそれから伝わって来るのは熱と痛みだけ。
酷い冗談だと思うのに、そんな考えさえ溶けて何処かへ流れていった。





茨の鎖にがれて






「……っ、……ぐ」

半ば吊られるようにして掴み上げられている胸倉は、頸に掛かって容赦なく締め上げていく。 惨めったらしい呻き声を漏らしても、だが目の前の男は僅かたりとも手に籠める力を弱めようとはしない。 殺す気か、と考えて一瞬で馬鹿馬鹿しくなった。当たり前だ、俺だって今もし身体が自由であるなら剣を抜いていただろう。

薄汚れた白壁が肩を擦り、ざりざりと耳障りな音を立てる。灼熱地獄、砂漠のど真ん中にある泉を囲むこの街(といえる大きさなのかどうか。 しかし自分が知っている街の数などようやく片手の指に達する位なのだから比べようもない)―では、こんな ちっぽけな日陰だって貴重なものだ。歩んできた砂漠の道のりを思い出すとぞっとしないが、今の状況はこの貴重な日陰なんかかなぐり捨てて あの砂漠に舞い戻った方がマシだと思える程に最悪だった。


「……この愚図が…」


物凄い形相でこちらを締め上げている男を、勿論自分は知っている。 つい最近剣を交えたばかりの、イオンを連れ去ったその、――なによりこの見慣れすぎた顔、を持つ男を。

こんな男と……――アッシュ、と、二人などという今の状況は大層イカレている。せめてガイか、誰かと一緒にいたならば 話は別だったのに。
この狭いオアシスの中で、ザオ遺跡へと向かう前の暫しの休憩の為に偶々各自が分かれたその瞬間に、いきなり引きずり込まれる様にして(本気で肩が抜けるかと思った) こんな建物の裏に連れ込まれた。恐らくは偶々、ではないのだろうが、どちらにせよ視線を動かしても 助けてくれそうな人影ひとつ見当たらない。六神将なんていう大層な肩書き(その存在の危険性)はこの際置いておくにしても、 相手がよりによってこいつ、鮮血のアッシュ。視界に入れるだけで殺したくなるようなその男だなんて自分は何か祟られる様なまねをしたのだろうか。

(もしくはあのスコア、とやらにはこんなことも詠まれているのだろうか)
(おれにはスコアの重要性なんかわからない)
(屋敷の中のこと以外、なにもしりはしない)



そのまま暫く締め上げる掌に爪を立てることだけに専念していたら(何を言おうにも声を出すのすら苦痛だったから仕方がない) いきなり叩きつけるように地面に打ち捨てられた。余りの唐突さに受身も取らずに諸に砂溜まりに突っ込んだ身体は痺れる様に痛い。

「……っ!!こ、の…っ…!!?」

がつんと鈍い音がしたと思った刹那、視界が真っ赤に弾けた。

「っぐ…!!」

硬い軍靴で勢いよく蹴り飛ばされたこめかみは、突き抜けるように痛かった。潜り込む様に砂山に突っ込んで、 だけれど起き上がる暇もなく次々と其の衝撃は続いた。最早狙って足を振っているわけではなさそうだったが、 鳩尾に食い込んだ爪先が抉るように胃の中を突き上げて、乾いた砂の上に無様に吐き散らす羽目になった。

「なん……なん、だ…よっ!!!」

理不尽な(のかはわからない)暴力の嵐が漸く収まって、ぎりと目の前に立つ男を睨み上げる。 蹴り返してやりたかったのだが、ずきずきと傷む身体は暫く起き上がれそうもない。

「……なんなんだよ、」

生理的な涙が目の端に浮かんでるのが分るが、悔しさよりも猛烈な怒りが身を焼いた。 目の前の男が許せない。暴力が、自分の状況が、そして男の存在自体が。


「俺になんでこんな」

言い募ろうとすれば、またも足が飛んできて顎を蹴り飛ばす。じわりと苦い味が口の中に広がり、 酷く苛立った。

「……何も知らないくせに…この屑がっ……!!」

再び納まった足から身を避けるようにして少しばかり転がってから仰向けになり、ぜいぜいと喉を鳴らしていたら、ざ、とアッシュの足が顔の直ぐ側に踏み出したのが見えた。 白い砂の上に散らばった髪は、さらさらとしたそれを纏わりつかせるように乱れ流れていた。其の上に置かれた足が、少しばかり強めに 踏みしめたりするので忽ちに髪が軋んで側頭部にびりびりとした感覚が走ったが、もう抵抗しようと言う気力もなかった。

「……赤い」

自分の方が余程濃い色彩を持つ癖に、ぽつりと落とされたその声音は何処か憮然としていた。 大の字に投げ出した身体を持て余して、ぎらぎらと光る陽をただじっと見上げていれば、見下ろしてくる男の顔には当然濃い影が 掛かっていて、嗚呼こいつは今自分を斯うして殴り倒して傷つけて、そして殺さないことで何もかもから逃げているのだと おぼろげに思った。

逃げている男を見て浮んだ憎悪は、一瞬の内に虚無に取って代わった。おれは逃げる場所なんてないし第一何から逃げるのかもしらない。 こんな場所で俺なんかを痛めつけてこの男は満足している(ようには見えない、が)。そして俺はこんな場所でただ ぼろぼろに蹴り倒されて、それでもその端的な理由以外での怒りを覚えられないでいる。

「…おれは親善大使なんだ」
「……?」
「えらばれたんだ…だからおれはえいゆうに、なるんだ」
「…こ、の…!?」


途端憤怒に顔を歪めて振り下ろされる足を腹で受け止めて、かは、と乾いた息を吐いた。
おれは親善大使なんだ、ともう一度呟くようにして言葉を押し出す。 そうしないと自分が此処でこの男に抵抗するべき理由すら分らない気がした(実際は身体がロクに動きもしないので抵抗らしい抵抗なんてどの道できないのだけれど) そのまま其処で動きを止めた足にそろそろと手を伸ばして、ぐっと両手で掴んだ。 引き抜こうとする気配もなく、ただ激情に身を焦がす様に息を切らす男をやっぱりゆっくりと見上げて、それからその背後の光を仰ぎ見た。

強すぎる光に目は灼けて、最早白い其の光しか分らないのだけれど、そちらにあることさえわかればそれでいいのだと思った。


「……お前なんか、何も知らない屑のくせに、如何して」

きっと斯うしてアッシュの足の下で打ち伏している自分より、アッシュは日に近いところにいるのに。 ただ灼くそれに目を眇めて上を見上げる俺を見下ろしているアッシュには、俯いて流れる”赤い髪”によってかかる影から 覗く俺の姿が酷くくっきりと光の下に居るように映るのだ。



――おれはなにもしらない

スコアの重要性なんて
戦争回避の方法なんて
アクゼリュスなんて

英雄、なんて
じゆう、なんて

おれはなにもしらないんだ



「……どうでも、いいんだよそんなこと……」



俺が戦争の道具だなんてことも、軟禁されてた理由も。
俺がこれからどうすれば良いのかとか、どうすべきなのかとか。

俺に何かをくれるのはせんせいだけ。

強すぎる光に目は灼けて、最早白い其の光しか分らないのだけれど、そちらにあることさえわかればそれでいいのだ。



「如何して、なんて何でお前が聞くんだ」

お前はせんせいじゃないのに。

蹴り飛ばされると思ったのに、いつまでたっても衝撃は襲ってこなかった。 嗚呼こいつも俺の事なんか結局のところどうでもいいのだと思ったら、先程までの 激しい怒りは嘘のように掻き消えて不思議と安らかな気分になった。



磨き上げられた姿見の中に居る自分を、じっと仰ぎ見る。 濃い影の落ちた顔は見えないけれど、怒りよりも深い感情が揺れるのだけがわかった。其れは浴び慣れた侮蔑の様でもあったし あるいは、失望という名のものなのかもしれなかったが、灼けた視界を凝らしてまでそれを突き止めようと言う気は起きなかった。

体中が痛くて、暑くて、俺は地面に伏して。親善大使、公爵家の子息、時期国王の筈の俺は、こいつに言わせれば 世間知らずの剣を向けることさえいちいち躊躇う臆病者で。目の前の男はそんな俺を捻じ伏せるだけの圧倒的な力で、 容易く切り刻むことが出来る。


「ヴァン師匠が俺を必要だって言ったんだ」


俺は何も知らないし、キムラスカやマルクトがどうなろうとどうだっていいのだ。 せんせいが、そう望んでるのだということさえわかればいいのだ。

「………この、」


恐らくは決定的な言葉を躊躇っている男は、だが未練たらしく力の入らない足を俺の上からどけようとはしなかった。 でもどうだっていい。そんなこと。



俺を殺すことも出来ないこいつを、俺は、もう哀れな奴だとしか思わなかった。








アッス→親善大使→ヴァンてんてー→アッス(報われないのは公式デフォ
短髪期より強いのは、別に親善大使の性格故というよりも、ヴァンてんてー的にアクゼリュスまでは若干ルークのほうが 重要性が高い(ひいてはアッスの為とはいえ、局所的にはそうなる)のが真実で其れが何となくアッスも 本能で分るからです。