うつくしいものをしっている
其れは憎悪であり執着であり

そうして閉塞された空間で渦巻く空虚こそが
ただひとつの生きるよすがと、なり下がる


「――ガイラルディア様」


まるでその名前(打ち捨てられ踏みにじられたそれ)が譜歌かなんかであるかのように、朗々とした調子で男は自分を呼んだ。 男は第七音譜術士でもあったから、その喩えはあながち間違ったものでも無いのだろうが、実体を持たない楔としての 名はこの整えられた屋敷の中では些か虚しく、そして無性に甘美に響いた。(それは恐らくこの屋敷の中だからこそ)(そのアンビバレンス)

「ヴァン、……何だ」

不用意な男ではないから、決して戯れだけでこんな場所でその名を呼んだ訳ではないのだと知っている。 視線を落とすようにして問いかければ、男は小さく嗤った(様に見えた)

「お忘れになってはいませんな?」

そして見透かした口調で、男は問うた。




カタルシス   に眩み




貴人の”その”態度に困り果てたメイドが自分に泣きついてくることは珍しいことではない。 自分は「お坊ちゃまのお気に入り」であるし、其れが自負のみならずこの屋敷の主人(公爵その人だ) の意図するところであるのだから、ある意味当然ともいえるだろう。(体の良いあやし道具のようなものだ)


此方に背を向けて寝転んだ子供の側に腰掛けて、そっと溜息をつく。本来なら自分が腰掛けることなど許される筈も無い 柔らかな寝台は軋むようなことは無かったが、ただぴくりとも動かぬ子供の肩が拒絶する冷たさを堅持 しようとしているのが矢鱈と哀れで、また酷く滑稽でもあったのでもう一度だけ座り直す様に腰を上げてから、 極自然にその肩に手を触れた。

「ルーク」

辺り一面に散らばった哀れな物達を見やりながら、最後にはゆっくりとルークに視線を戻す。 意外にもこの子供は綺麗好きだし、室内が斯うも破滅的に散らかってるときは大体一時的な癇癪の後だけなのだと相場が決まっていた。


どうせこの豪奢な鳥篭に、声も掛けずに足を踏み入れる人間など自分しかいないのだから、 ずっと扉から目を背けていたにしてもルークにはとうに誰が今斯うして己の側に居るかなど分っていただろう。
(そしてこんな、公爵子息の私室で身の程知らずな真似をする使用人だって勿論自分しかいない訳だ)
なのに、何処か純粋な色を籠めてルークは肩を震わせて小さく身じろぎした。まるで今初めて其処にいるのが誰か 分ったのだと言うような態度で、そろりと其の翠色で見上げてから莫迦みたいに呆気なく破顔した。

「また泣いてたのかルークお坊ちゃん」
「ちっげーよ、ばか」

ころりと転がった身体を見下ろしながら揶揄えば、ルークはあからさまに顔を顰めて見せた。14という年齢にそぐわない 幼げな仕草に少しばかりの笑み交じりで頭を撫でてやれば、より一層凄まじい顔でルークは俺を見上げた。

「それでは如何してご主人サマはご機嫌斜めなので?」

ルーク様が酷くご立腹なのです、とは昼食を運ぼうとしたメイドの言だった。部屋に入れもせずに追い返したのだという。 今日はまだルークに会ってない、と言ってやれば当然の様にご機嫌取りをしてきてくれと頼まれた。

「…………」

しかしはたと閉ざされた唇は、予想だにしない唐突さで固く結ばれた。どうせ大した理由ではないだろう (何時もの様にそれはメイドの態度が気に触っただとか、相も変わらず外に出たいとかそうした類の欲求が通らなかっただとか) と思っただけに、その変化は心底意外だった。がなりたてるだけがなりたてて、後はけろりと機嫌を直すのがこの 傲慢で高貴なお坊ちゃまの常の怒り方だった筈だ。何処か硬い表情で、ぼんやりと空を見詰めるルークの姿に、 少しばかり慌てて(…苛立ったのかもしれない)(何故、か)もう一度その名を呼んだ。

「ルーク?」
「五月蝿い」

打ち据える勢いで吐き捨てられた言葉は、常に無く乱暴に散らばった。だが無造作に身体を起こしたルークは、立ち上がると何事も無かったかのように ふ、と其の顔に笑みを刻む。

「………もう、いいだろ?それより付き合えよ」

剣、と口の端を吊り上げたルークはしかし矢張り何処と無く暗い色のまま、此方を見やるのだった。





抑えられた日の光が差し込む窓が規則正しく並ぶ長い廊下を、ルークの後から追って歩いた。――中庭は先程通り過ぎた。剣の稽古 を、と言った筈なのに――何処か投げ遣りに思考を積み上げる。実際疲れてもいた。ルークの常に無い態度が不審ではあったが 何だかそういったことを気に掛けるのが酷く煩わしかった。

疲れている理由、といえば其れは幾つか思い当たる。 使用人としての雑務が忙しいだとか、斯うして”公爵子息の気紛れ”に付き合わされる損な役回りだとか。 其れかあるいは、掌に握りこむ爪先の強さを抑えなければならないことだとか。(そんなことはもう何年もしていることなのだけれど)

あとはこのお坊ちゃまの15の誕生日がもう直ぐだから、かもしれない。限りなく屋敷内での儀礼でしかないのに (鳥篭は開かれることがない)流石は、と言うべきか守られる格式は飽く迄も公爵家、第三王位継承者を祝う ものでしかありえない。支度に駆けずり回る屋敷の者たちを当のルークは大して面白そうでもなく、ただ 見やっているのが此処のところの常だったが。


其処まで考えて漸く前を歩くルークへ思考を戻す。


ルークが歩くたびに、その豪奢な色の髪がゆらゆらと揺れる。そして自分が其れに付き従い歩く振動に従って 自分と、そしてルークの分の2本、腰に携えた模擬剣が小さく音を立てた。

全く持って巫戯気た色合いだと思う。赤を持つことこそが尊き血を引くことの証であるだなんて。 仇が仇たることの証明で、その確からしさを誇示するというのだから、とんだ皮肉だ。


ふと、血の色が赤いということを、(ことすら、)このこどもはもしかしたら知らないのかもしれない、と思った。


ルークの記憶の刻まれる五年間でそんなものに触れる機会は無いに等しい。(勿論記憶を失う前の十年間にしても其れは変わらない、ただ其方に関しては全てを知っている訳ではない、というだけだ) 磨き上げられた白磁の膚には醜い傷跡など何一つ無いし、 贅を尽くした鳥篭に、彼を害するものは居ない
(戯れに細くしろいこどもの頸に手を掛けて、縊るその瞬間のことを思い描く、自分にしたって、彼にとっては脅威足り得ない)
(これはなんという皮肉だ!)

囲われ(隔絶され)ルークは傷つく全てのことから無縁だった。……少なくとも、身体的な其れに関しては。 だからこの薄い膚を切り裂けば、どろりと赤い其れが流れ出すのだということをルークが知らずとも寧ろ可笑しい事ではない。

学ぶ類のことではなくとも、そんなことさえ学べなかったルーク。 薄く誂えただけの笑みを浮かべたヴァンデスデルカ、あの幼馴染を師と慕い、そして強請るように交わして貰っている棒切れ遊びが どれだけ滑稽な飯事に過ぎぬかなどルークは知らない。剣を奮い、しかし其処に傷つくものは存在しない(ヴァンは 相当の手錬であったからルークに傷を負わせるようなヘマはしないし、逆に至ってはルークの振り回す其れがヴァンに掠る事などありはしない。)

――そんなことはないのだ、と何処か冷静に反芻する。血が赤いことを知らない人間なんて、馬鹿げた考えだ。

ただ硝子細工のように取り扱われるルーク、紛うことない滴り落ちる命の雫で(―それは勿論ホドで流された其れを内包する) 染め上げた其の玉座を行く末に得る筈の王位継承者。


「……なあ」


ぴたりと足を止めたルークがいきなり振り返りこちらを見る。何時の間にか回廊を抜け広間の方まで来ていた。 少しばかり驚いたが、長年かけて築きあげた鉄壁はそんな事では揺るがない。 ん、といつも通り難なく応えを返してやれば、ルークは何処か冷えた目でじっと此方を見た。

「俺もうすぐ15なんだ」
「…あぁ?…そうだな」
「だから、」

苛々と頭を振って、ルークは唐突に俺の腰に刺さっていた模擬剣を引き抜いた。

「ルーク!?」
「…付き合えっていったろ?」

剣を構えてみせたルークが、ただじっと此方を向いている。 そんな光景が酷く現実感のないものとして目に映るのは、錯覚などではないだろう。

「馬鹿いうな、こんな所で…やるなら中庭に出て」

豪奢に格式高く拵えられた広間には多くの調度品がある。それは例えば、王紋の刻まれているような 一つでも損なえば自分の首などさっさと飛んでも文句は言えないような類のものばかりだ。 第一、今でこそ人気はないが屋敷の玄関に通じるこの広間にいつ人が来てもおかしくはない。 そんな場所で剣戯などしていれば、どんな騒ぎになるかは想像に難くない。

「おれに命令するな」

いきなり振りかぶったルークは躊躇いなくその剣を振り下ろした。反射的に抜き、其れを受ける。

「おい、ルーク!?」

面白がる様子もなく、寧ろ憤懣やる方ないといった表情でルークはそのまま剣を振り続ける。 真剣ではない其れはぶつかり合うごとに鈍い音を立てて鳴ったが、手に伝わる痺れは決して軽いものではなかった。

「やめろって!」

少し強く振りぬけば、ルークは二三歩踏鞴を踏んで後ずさった。息を整えるように肩を動かして、 そして片手で乱れた髪をかきあげる。赤が揺れるのを、少しばかり呆然としたまま見ていた。

「お前は此処が好きなんだろ?」
「は…?」
「……ヴァン師匠だって、」

いきなりルークの口をついた名前に思わず背筋を凍らせる。この場所と其の名前は 奇妙な共通点で結ばれるものだ。反射的に視線が泳ぎ、高々と掲げられたもの を探す。

この屋敷で、フェンデ家のヴァンが、ガルディオス家の自分との誓約を確かめる場所など 決まりきっていることだ。失われし地の遺品、略奪品として貶められた宝剣。それが掲げられたのは 皮肉にもこの公爵家へ足を踏み入れて開ける広間。喧伝される戦果と権威は容赦なく自分らを駆り立てる。

「…ルー…ク?」

知っている訳はない。決定的な言葉を口にしたことはない。知られている訳がないのだ。そう 反芻しても目の前のルークは酷く静かにこちらを見ていて、確たるはずの其の保証を揺るがせた。

「もうおれはこどもじゃない」

剣を構えなおしてルークは此方へ足を踏み出す。


「忘れたのか?」


どくり、と拍動が響く。既視感に足が竦んだそのとき、ルークは思い切り剣を振りかぶった。



復讐が何時為るのか、と考えたことがある。
公爵を殺し、夫人を殺し、騎士やメイド達をも全て殺しつくし、 そしてルークを、殺す。さすれば復讐は果たされて、自分は解き放たれる。その為だけに自分は此処にいて、 それを願い続けて自分は生き長らえてきたのだ。ただそれを実行に移すのが何時なのか、自分には分らない。 時を見て、と念じているもののその時が来る日が訪れるかも分らない。ヴァンデスデルカはまだ早い、と 言う。少なくともルークが17になるまでは、と何処か確信に満ちた口調で言い切る。その根拠を自分は知らないが、 別段知りたいとも思わない。まだ早いのだろう、と言われればそうなのだろうし、しかし決して忘れてはいけない というのも当然のことだ。

殺せないでいる。

それが今の状況なのだ。――そういう、ことになっている。


示唆され続ける願い、揺れる赤い髪。掲げられた宝剣は、閉ざされた世界での唯一の導であり見失うものを示す証。 忘れるはずのないことを、だが男は聞く。男には分っている。俺が今の状況に甘んじていることを、 安寧とした生活の中切っ先を研ぐことに厭いていることに。

憎い、殺したいのに。こんなにもルークを殺したいと思っているのに。 時がこなければ殺すことは出来ない。


そんな馬鹿げた、言い訳を弄して



「…!!」

高い音で剣が弾けとび、磨き上げられた床に転がる。思考を飛ばし容赦なく弾き返した剣は、 其れを握っていた子供の体躯まで吹き飛ばして壁に叩き付けた。

「っルーク!!」

けほけほと乾いた咳をして壁際に座り込んだルークのもとへ駆け寄って、側に膝を付く。 抱き込むようにしている掌に気付いて手に取ろうとすれば、ルークは一瞬身を強張らせた。

「……!」

一筋流れる赤が未だ幼い掌に走り、剣筋を刻んでいた。傷むのだろう、見詰める先で僅かに震えた そこから雫が連なって垂れて、白い指までを汚した。

「ルー…ク、わ、悪い、やり過ぎた」
「……いい」

布を取り出して傷にあてがおうとすれば、ルークはぞんざいに手を振り払って そのまま軽く振った。

「んなことしなくても平気だよ此れ位」

傷を舌先で舐めて、ルークは軽く俯いた。血の味に眉を寄せるルークの顔を、鮮やかな朱色の 髪が流れ白い手に落ちかかる。

伏せられた視線が少しばかりの動揺すらなく滴る雫を捕らえていることに、何故か走るような衝撃を覚える。 口の中が乾き、動きを止めればルークは何事もなかったような顔ですい、と視線を上げた。

「……ヴァン師匠も、そうだ。いつもいつも、俺に」

もういい、と言ってルークはすくりと立ち上がる。半ば呆然としたまま其の動きに従って首を上げれば、 ルークは酷く暗澹とした表情でおまえなんかきらいだ、と呟いた。

踵を返して回廊を戻っていくルークの背で相変わらずその赤は鮮やかに映えた。 それでも目に焼きついた、あの赤。白い手を汚すあの色は到底消えそうもなかった。



言いようもない歓喜が身を震わす。

ルークの流す犠牲に自分は喜ぶ。 この身から離れなどしない確かな遺志に、それが消えそうにないことに震えるような歓喜が湧く。 白磁を汚す色合いは美しく、渇望しうるものに相応しい甘さを具えていた。 自分はあれを流すことをこんなにも求められる。その幸せに恍惚さえ覚えて、暫くそのまま座り込んでいた。



手を動かした弾みでかちゃん、と側に放ってあった剣が鳴る。視線を落とせば僅かに切っ先に赤を纏ったそれが ただ静かに転がっていた。

其の瞬間急に頭が冷え、酷く冷淡な気分になる。どんなに美しく甘美なものでも結局のところ残るのは こうして剣に纏わり付く其れだけなのだ。他には何も残らない。きっと力なくただ打ち捨てられた体躯を流れる赤 は直に乾き、こびり付くだけの汚らしい其れに変わるのだろうから。

「ルーク…」

ルークが何を思ってこんなことをしたのかはわからない。何を知った訳ではないだろう、それだけは真実なのだろうが。 きらいだ、と零した暗澹はそれでもこどもの癇癪の域を出ない。 恐らくヴァンや自分がルークを子供扱いすることに、全く持ってお坊ちゃんらしい気紛れな癇癪でこんなことをしたのだろう。

きっとそうだ。

態々こんな場所を選んだのも、何処か期待と諦観の間を彷徨うような目で俺に縋ってきたのも、 あの男と俺というルークの中で多くを占める存在を口にしてみたのも、嘆くようでいて 憐れみていたようなのだって。そんなことはただの思い過ごしに過ぎないのだ。



ルークはまだ子供で、自分の複雑な渇望など理解し得ないのだから。




依然微動だにせず飾られた宝剣の煌きが、厭と言うほど目に突き刺さる。

そして今日、いちどだってルークが俺の名を呼んでないことに今更の様に気付いた。






ギリギリガラスの10代ガイ様華麗に大人気ない。 まだ殺意の方が可也優勢。
決め付けて暗示をかけてることに気付きたくないガイ様。まあ愚かな略の 師匠も同罪。
ああ屋敷時代ってエロい(他にいうことは